廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる(その2)
(その1)は こちら をご覧下さい
5月8日(日)、JR八王子支社・西武鉄道共催の「駅からハイキング」イベント「廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる」、9:40、JR八高線高麗川駅前出発。11:20、ようやく高麗郡建郡1300年記念の核心部旧高麗卿に到着。
観光の順序としては、先ず高麗神社正面の鳥居を潜り神社に参拝してから裏に控える高麗家住宅を見学するのが普通だが、当日はコースの設定上、西武鉄道の係員に案内されて、神社の裏口に当たる高麗家住宅側の門から敷地内に入る。
此処で、西武鉄道のイベントの常連はポイントカードにポイントを貰う。
西武のイベントではコースの要所に矢印の案内が付けられていて至り尽せりである。JRのイベントは初めてでコースの途中に何も案内表示が出ていなくて心細い。参加者の列に入っていれば一々確認することもなく安心して歩けるが・・・・・
此処で、西武鉄道のイベントの常連はポイントカードにポイントを貰う。
西武のイベントではコースの要所に矢印の案内が付けられていて至り尽せりである。JRのイベントは初めてでコースの途中に何も案内表示が出ていなくて心細い。参加者の列に入っていれば一々確認することもなく安心して歩けるが・・・・・
国指定重要文化財の高麗家住宅。
江戸時代前期の木造建築で室町時代の面影を留める。
代々の高麗神社神職の住居に使われていた。
江戸時代前期の木造建築で室町時代の面影を留める。
代々の高麗神社神職の住居に使われていた。
植込みの縁石に腰掛けて昼食休憩。
右脇、植込みの引き込んだ場所に石碑が構える。
野田宇太郎の作品の一節が刻まれている。
近寄ってズームアップ。
ぼろぼろの千二百余年も前からの それでも人気ないこの武蔵野に
この家系図の階段をのぼりつめると 同じ思ひの人々が群れ集った時
はるか朝鮮奥地の茫々たる原野がみえ ただひとすぢの名もない青い川だけは
大陸から押し寄せる唐の大軍 天日に希望のように光ってゐたのでありませう。
東の海辺にひしめく新羅 夢うつつ大和ぐらしに慰められて
つひに七百年の歴史を無残に砕かれた やがて亡国の恨みも忘れたので有りませう。
高句麗の、うらぶれた敗亡の民に混って ぼろぼろの千二百余年も前からの
とある日の相模の海に漂ひ着いた この家系図の階段を降りてしまふと
わたくしの先祖若光の憂ひの顔が わたくしはこの高麗村の
今もまなかひに浮かび出します。 貧しい社の前に一人立ってゐるのです。
あの・・・・・
この錆びた高麗太刀 ・・・・・・
この虫づいた大般若経の古い写本 と、青年は口をつぐみ、
そして伝来の仏像や獅子面が ひろげた家系図を巻きはじめる。
亡命といふ鈍いかなしい音となって 空しいが、然し根強い
はてしない海原にのこした水脈のやうな 古代のやうな沈沈とした月明の夜ふけ
わたくしの心の中に、 この部屋だけが灯りを灯して息吐いてゐて
今も時折鳴り響きます。 山上には累々とした祖先の墓がねむってゐる。
右脇、植込みの引き込んだ場所に石碑が構える。
野田宇太郎の作品の一節が刻まれている。
近寄ってズームアップ。
ぼろぼろの千二百余年も前からの それでも人気ないこの武蔵野に
この家系図の階段をのぼりつめると 同じ思ひの人々が群れ集った時
はるか朝鮮奥地の茫々たる原野がみえ ただひとすぢの名もない青い川だけは
大陸から押し寄せる唐の大軍 天日に希望のように光ってゐたのでありませう。
東の海辺にひしめく新羅 夢うつつ大和ぐらしに慰められて
つひに七百年の歴史を無残に砕かれた やがて亡国の恨みも忘れたので有りませう。
高句麗の、うらぶれた敗亡の民に混って ぼろぼろの千二百余年も前からの
とある日の相模の海に漂ひ着いた この家系図の階段を降りてしまふと
わたくしの先祖若光の憂ひの顔が わたくしはこの高麗村の
今もまなかひに浮かび出します。 貧しい社の前に一人立ってゐるのです。
あの・・・・・
この錆びた高麗太刀 ・・・・・・
この虫づいた大般若経の古い写本 と、青年は口をつぐみ、
そして伝来の仏像や獅子面が ひろげた家系図を巻きはじめる。
亡命といふ鈍いかなしい音となって 空しいが、然し根強い
はてしない海原にのこした水脈のやうな 古代のやうな沈沈とした月明の夜ふけ
わたくしの心の中に、 この部屋だけが灯りを灯して息吐いてゐて
今も時折鳴り響きます。 山上には累々とした祖先の墓がねむってゐる。
668年、遥か昔、現中国北東部に興り、東アジアの強大国に成熟した高句麗が唐・新羅の侵攻を受け滅亡、700年に及ぶ栄華の歴史を閉じた。
亡国の王族・廷臣・官人・将兵・民は大挙難を逃れてあちこちに逃散・流浪した。
一部は海を渡り日本(当時は倭国)に渡来した。
上掲の一節はその苦節の一端を語り伝える。
亡国の王族・廷臣・官人・将兵・民は大挙難を逃れてあちこちに逃散・流浪した。
一部は海を渡り日本(当時は倭国)に渡来した。
上掲の一節はその苦節の一端を語り伝える。
その顛末を、現高麗神社宮司、先祖若光直系60代の孫に当たられる高麗文康氏は、若き日の若光の活劇譚風に小説に仕立てて世に出した。文康氏は限りなく五段に近い合気道四段。所沢に本拠を置く小林道場傘下の飯能道場で責任指導者を務められる。立ち廻りの描写は堂に入っている。フィクションと断りがあるが史実のポイントは抑えられているようだ。近々マンガ本が出されるとか。
(この本は神社の参集殿の社務所でも買い求めることが出来、週日に参詣客が少なく宮司が詰めておられる時にはその場で肉筆のサインを頂くことが出来る)
(この本は神社の参集殿の社務所でも買い求めることが出来、週日に参詣客が少なく宮司が詰めておられる時にはその場で肉筆のサインを頂くことが出来る)
上掲の1節の最後「山上には累々とした祖先の墓・・・・・」とは何のことだろうか?!
石碑の左、高麗家住宅の右後、竹垣を廻らして立派な門が構える。
「幽栖門」との額が掛かる
こちら側が外で、すぐ後ろに迫る山林側が内部。閉じられたままで立ち入り禁止。
「幽栖門」の名から推し測るに背後の山地は然るべき「奥津城」か?!
石碑の左、高麗家住宅の右後、竹垣を廻らして立派な門が構える。
「幽栖門」との額が掛かる
こちら側が外で、すぐ後ろに迫る山林側が内部。閉じられたままで立ち入り禁止。
「幽栖門」の名から推し測るに背後の山地は然るべき「奥津城」か?!
敷地の背後は奥武蔵山地南の末端。
その山林は「立ち入り禁止」で「まむしがいます」と注意書きがある。
マムシの危険が禁止の理由ではないだろう!
20年程以前、「マムシに注意」の立札が立てられていたが立ち入り禁止にはなっていなかったと記憶する。微かな踏跡が認められ、立札の存在が入り込む者のいることを告げているように思われ、かえって誘惑に引きずられそうでもあり、また躊躇われもした。
その山林は「立ち入り禁止」で「まむしがいます」と注意書きがある。
マムシの危険が禁止の理由ではないだろう!
20年程以前、「マムシに注意」の立札が立てられていたが立ち入り禁止にはなっていなかったと記憶する。微かな踏跡が認められ、立札の存在が入り込む者のいることを告げているように思われ、かえって誘惑に引きずられそうでもあり、また躊躇われもした。
今は、軽4駆なら登れるような簡易舗装の道が付けられている。「関係以外立ち入り禁止」。
真冬にはマムシも心配なかろう。禁止の措置が執られる前に入って置けばと悔やまれる。
真冬にはマムシも心配なかろう。禁止の措置が執られる前に入って置けばと悔やまれる。
昼食休憩後、神社本殿の脇を通り抜け正面に出て、改めて境内に入り直す。
一の鳥居を潜り駐車場に入ると片側にトーテムポールを思わせる「天下大将軍」、「天下女将軍」の2体の「将軍標」の石柱が建つ。強面のようでもありユーモラスでもあり、朝鮮半島古来の民間信仰による魔除けの由。終戦後に建てられ、初めは木製だったものが腐食して倒壊の恐れが生じ今の石柱に建替えられた。
これまで見掛なかった石碑が建つ。
近寄ってアップ。
第50代桓武天皇の御代、延暦16年(797)公になった「続日本紀」巻第七、第44代元正天皇(草壁皇子の皇女、第42代文武天皇の姉、第40代天武天皇、第41代持統天皇の孫に当たる)、霊亀2年(716)5月の条の条文の1節が刻まれている。
原文は漢文だが、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヶ国にいる高麗人千七百九十九人(1955人とする資料もある)を武蔵の国に移住させ、初めて高麗郡を置いた」と読み下す。
違和感を覚える。
官撰の国史が事実をあからさまに伝えていないだろうことは昨近の状況から存分に察せられることである。
一の鳥居を潜り駐車場に入ると片側にトーテムポールを思わせる「天下大将軍」、「天下女将軍」の2体の「将軍標」の石柱が建つ。強面のようでもありユーモラスでもあり、朝鮮半島古来の民間信仰による魔除けの由。終戦後に建てられ、初めは木製だったものが腐食して倒壊の恐れが生じ今の石柱に建替えられた。
これまで見掛なかった石碑が建つ。
近寄ってアップ。
第50代桓武天皇の御代、延暦16年(797)公になった「続日本紀」巻第七、第44代元正天皇(草壁皇子の皇女、第42代文武天皇の姉、第40代天武天皇、第41代持統天皇の孫に当たる)、霊亀2年(716)5月の条の条文の1節が刻まれている。
原文は漢文だが、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヶ国にいる高麗人千七百九十九人(1955人とする資料もある)を武蔵の国に移住させ、初めて高麗郡を置いた」と読み下す。
違和感を覚える。
官撰の国史が事実をあからさまに伝えていないだろうことは昨近の状況から存分に察せられることである。
高麗郡を置いたとは、詳しくは、当時すでに行政単位として確定していた武蔵の国入間郡の一部を割いて新たに高麗郡を設けたと云うことである。
古代の武蔵国の概念図。
古代の武蔵国の概念図。
地図では、この分割は地形を考慮しないで形だけを見ると何となく不自然に見える。
郡は国の下部組織として、国の長官(守)である国司の管轄下の官制に組み入れられ郡司が任命される。
正史の記録では新たな郡の首長すなわち郡司(大領)に就任したのは誰なのかを伝えていない。
上掲石碑の前段は、大宝3年(703、文武天皇の御代)4月の条に「従五位下高麗若光に王(こにきし)姓を賜る」と記録されていることを伝える。
正史の記録では新たな郡の首長すなわち郡司(大領)に就任したのは誰なのかを伝えていない。
上掲石碑の前段は、大宝3年(703、文武天皇の御代)4月の条に「従五位下高麗若光に王(こにきし)姓を賜る」と記録されていることを伝える。
高麗郡の初代郡司はこの「高麗王若光」であろうとされているが官撰国史には記録がなく、高麗家に伝わる家系図により判断されているのだが、その家系図とて後に記すように確証を与えるものではなさそうだ。
文武は697年持統から皇位を譲られたが先帝は「太上天皇」を称して実権を保ち続け、実務は寵臣の藤原不比等が取り仕切っていた。不比等は系図では鎌足の子だが持統の異母弟との俗説がある。
若光が「王(こにきし)」の姓を授かったのは先帝持統の没(702)後である。
若光が「王(こにきし)」の姓を授かったのは先帝持統の没(702)後である。
わが国では、壬申の乱に勝利した大海人皇子が皇位に就いて第40代天武天皇となり(672年)、「日本」の国号ならびに「天皇」の称号を公に定め、雑多な種族の寄り合いであった国体を改革し中央政府、なかんずく天皇に権力を集中した統一国家の確立が一挙に進められた。
「聖徳太子は日本人ではなかった!」とは、日本の中世史研究に新境地を開拓された網野善彦先生が折に触れ発せられたお言葉である。
云わんとするところは、太子の時代には「日本国」の国号は未だ公になっていなかったとの厳密を尊ぶ信条から発せられたものである。
云わんとするところは、太子の時代には「日本国」の国号は未だ公になっていなかったとの厳密を尊ぶ信条から発せられたものである。
若光に授けた「王」の姓は、朝鮮半島の国々の制度での位階であり日本国の制度から外れたものであって官位に結びつくものではない。単に高句麗の王族の出自であることを認めたに過ぎなかろう。
既に滅亡した国の王族の係累であることを、亡国後35年も過ぎてから認めることにどのような意味合い、日本国朝廷の思惑があったのだろうか?
まさか亡命政権の樹立を唆したわけではあるまい!
既に滅亡した国の王族の係累であることを、亡国後35年も過ぎてから認めることにどのような意味合い、日本国朝廷の思惑があったのだろうか?
まさか亡命政権の樹立を唆したわけではあるまい!
この時若光は朝廷から従五位下の位をすでに授かっていたと解せられる。
従五位下は太政官ならば「少納言」、地方諸国を大・上・中・下にランク付けした上国の守の官位に適う。
従五位ほどの叙位は正史に記録されるのが普通である。
正史ではあからさまに出来ない裏の事情があったのではなかろうか?!!
正史ではあからさまに出来ない裏の事情があったのではなかろうか?!!
若光の素性を探るに、日本書紀巻第二十七天智称制5年(666)正月、「高麗の使いの前部能婁等が朝貢、同10月、同じく大使臣乙相奄𨛃・副使達相遁・二位玄武若光等が朝貢」と記す。
唐・新羅連合軍の大攻勢に際し倭国の救援を求める使節団であり、前段は差し当たっての前触れ、後段は国王の親書を携えた全権大使の派遣であろう。
百済が滅亡する前、唐は百済と同盟関係にある高句麗を攻撃して撃退された。この時、倭国は高句麗の要請を受け派兵している。高句麗の期待は大きかったろう。
百済が滅亡する前、唐は百済と同盟関係にある高句麗を攻撃して撃退された。この時、倭国は高句麗の要請を受け派兵している。高句麗の期待は大きかったろう。
ここに記された「二位玄武若光」が後の「高麗王若光」であろうと見られているが、果たして同一人物なのか襲名した後継者なのかは確証がない。
当時の倭国は663年(天智称制2年)、唐・新羅の侵攻により滅亡に瀕した百済の救援に大軍を発し、白村江の会戦で壊滅の憂目。敗戦処理に追われていた。
先帝第37代斉明はこの戦いで大本営を北九州に移す征途で崩御。
熟た津に、船乗りせむと月待てば、潮も適いぬ。いざ漕ぎい出な!
全軍を鼓舞すべく額田王に代読させた檄文が万葉集に載る。
皇太子中大兄皇子は即位せず皇位空席。戦勝国唐や新羅の鼻息を嗅ぐのに精一杯で、親書の扱いに当惑、応対するカウンターパートが不在としてのらりくらりと体を躱し続ける。翌天智称制6年(667)3月、大和の飛鳥から近江の大津宮に遷都、668年2月、天智即位。形通りの儀礼を経て使節に倭国国王天智の返書が授けられる。内容は期待を外れるものであったが大使、上席副使等はそれを携えて帰国。
若光はなおも朝廷工作に粘り強く当たるために腹心の配下等と残留。各方面に人脈を築いたであろう。その内に高句麗が滅亡、帰国の契機を失ったと云う。その後若光は何処でどのように過ごしたのだろうか?
元々、イザと云う時には、王族・廷臣らの移住の下調べ・根回しに当たる役目を帯びて残留したのではなかろうか?高句麗の僧慧慈が聖徳太子の学問僧・ブレーンを務めていたことからも推し測られるように、朝廷には高句麗系の官人も少なからず侍っていたであろうし、大和一帯には高句麗系の集団も古くから住み着いていた。しかし同じ高句麗系と云っても幾重にも代を経ており、王族にしても政敵の間柄もいたであろう。
倭国は、百済滅亡後大勢の移民を受け入れ有能な官人は朝廷のブレーンに組み入れた。その時とは事情が大きく変わっている。新たな大集団の移住はそれ程易しい事業ではなかったハズだ。
倭国は、百済滅亡後大勢の移民を受け入れ有能な官人は朝廷のブレーンに組み入れた。その時とは事情が大きく変わっている。新たな大集団の移住はそれ程易しい事業ではなかったハズだ。
従五位下の叙位は、あるいは壬申の乱における何がしかの功労に対する遅ればせながらの報いであろうか?
若光が諜報機関を設け、築き上げた人脈を利して諜報活動を展開していたであろうことは容易に想像出来る。若光一派ばかりではない。反旧宗主派の一団や新羅、唐、旧百済も盛んに諜報活動を繰広げていたであろう。
若光が諜報機関を設け、築き上げた人脈を利して諜報活動を展開していたであろうことは容易に想像出来る。若光一派ばかりではない。反旧宗主派の一団や新羅、唐、旧百済も盛んに諜報活動を繰広げていたであろう。
天智即位の直前、儀式に必要な神器の一つ草薙剣を熱田神宮から輸送する途上で隙を突かれ、新羅の僧とされる道行に盗み取られ国外に持ち去られる寸前、水際で奪回すると云う事件が起きた。このような行動が唯一人の力で起こせる訳がなく組織的な諜報活動の表れだろう。僧とは素性を隠す隠れ蓑、熟達した間者集団の一員に違いない。半島情勢を巡り微妙な国際関係の中に反新羅派の天智の即位を阻止しようとの行動とされる。
この犯行を探知、追捕し神器を奪還した一団も手練の一団だったろう。両者の間に壮烈な惨劇が密やかに展開されたと想像される。
これは氷山の一角に過ぎず、雑多な諜報組織が入り乱れて跳梁、高句麗にしても若光一派だけでなく反対派の一団も暗躍していたであろう。
これは氷山の一角に過ぎず、雑多な諜報組織が入り乱れて跳梁、高句麗にしても若光一派だけでなく反対派の一団も暗躍していたであろう。
若光が大海人に通じたとすれば、本人あるいは配下が、残留していた高市皇子または大津皇子の近江脱出に係わった、あるいは北九州の海上に居座っていた唐の軍団の動向調査だろうか?
少しばかり想像が走り過ぎたようだ・・・
少しばかり想像が走り過ぎたようだ・・・
日本書紀壬申紀には武人若光の名は見えない。若光は中央を離れ、近江方、吉野方のいずれの陣営にも属さずに過ごしていたのであろう。
近年、藤原宮跡から「若光」と読める文字が記された木簡の断片が見付かったと伝えられる。
新政権の官人を務めていたと見る説もあるが地方の物産を進調した目録ではなかろうか?
近年、藤原宮跡から「若光」と読める文字が記された木簡の断片が見付かったと伝えられる。
新政権の官人を務めていたと見る説もあるが地方の物産を進調した目録ではなかろうか?
「続日本紀」延暦8年(789)10月、高麗朝臣副信の薧を伝える条に「祖父の福徳は唐の将軍・李芴勣が平城城を陥落させたとき我が国に来朝して帰化し武蔵に居住した」と記載されている。
「日本書紀」天智称制7年7月「高麗の遣いが越の路より貢物を進調して来た。風波が高く帰ることが出来ない」とあるのがこれに照応するのだろう。
福徳は玄武若光の義兄弟に擬せられ、肖奈公の出自。勇将で知られたと云う。書記は外交使節のように取り繕っている?が、そうではあるまい。
「日本書紀」天智称制7年7月「高麗の遣いが越の路より貢物を進調して来た。風波が高く帰ることが出来ない」とあるのがこれに照応するのだろう。
福徳は玄武若光の義兄弟に擬せられ、肖奈公の出自。勇将で知られたと云う。書記は外交使節のように取り繕っている?が、そうではあるまい。
第45代聖武天皇の御代、神亀四年(727)9月、渤海国の修好使節が出羽国に辿り着いた。渤海は高句麗の故地中国北東部に、高句麗の遺臣?らによって698年興こされた国である。
渤海国第2代の王は高仁義将軍を帯同させた24名を派遣したのだが、蝦夷の地に漂着、将軍以下16名が殺害され主席の高斉徳ら8名が死を免れての来朝になった。当時の外交使節の来朝は対馬から北九州の大宰府を経るのが慣わしであり、正規の使節として扱われなかったようだ。聖武紀は「使いを遣わして慰問して時節に合った服装を支給した」と記す。
渤海国第2代の王は高仁義将軍を帯同させた24名を派遣したのだが、蝦夷の地に漂着、将軍以下16名が殺害され主席の高斉徳ら8名が死を免れての来朝になった。当時の外交使節の来朝は対馬から北九州の大宰府を経るのが慣わしであり、正規の使節として扱われなかったようだ。聖武紀は「使いを遣わして慰問して時節に合った服装を支給した」と記す。
「蝦夷・・・・・」は体よく取り繕ったマヤカシだろう!?
「夷狄の襲来!」と慌てふためいた現地の役人が配下の軍勢を差し向け襲撃したのではなかろうか?、
12月下旬にようやく入京、暮も押し詰まった29日に衣服を支給され翌正月3日大極殿にて拝賀を許される。これは臣下なみの扱いである。間を空けて正月17日政庁にて引見を受け親書を奉ることを得る。
「夷狄の襲来!」と慌てふためいた現地の役人が配下の軍勢を差し向け襲撃したのではなかろうか?、
12月下旬にようやく入京、暮も押し詰まった29日に衣服を支給され翌正月3日大極殿にて拝賀を許される。これは臣下なみの扱いである。間を空けて正月17日政庁にて引見を受け親書を奉ることを得る。
肖奈福徳の場合はなおさら、半島の情勢は伝わっている事であり、敗残の流民扱い、入国は認めたものの現地の役人が携行品を略奪、その一部を都に送り届けたのだろう。その中には高麗剣もあったと想像されるが、どうだろうか?
これらの例のように朝鮮半島から渡来するには日本海側が距離的に有利なハズである。
終戦直後や朝鮮戦争の折には半島からの密入国・密輸船が屡々裏日本各地にあるいは闇に紛れて来航したと云う。こう云う事例は逐一史料に採り上げられないものであろう。
終戦直後や朝鮮戦争の折には半島からの密入国・密輸船が屡々裏日本各地にあるいは闇に紛れて来航したと云う。こう云う事例は逐一史料に採り上げられないものであろう。
上古から古代に掛けて半島北部からの入植者も、わざわざ半島を南下して九州に上陸するよりも、日本海を渡り直接東北や中部日本に上陸し安住の地を得て住みつくのが普通だったのではなかろうか?日本の文化は北九州から畿内を経て東国方面に浸透してきたとする、物証のみを拠り所とするアカデミズムに毒された大家の通説は見落としを孕んでいると思えてならない。
冒頭に引いた野田宇太郎の碑文では、高句麗の敗亡の民は相模の里に海路を直接漂よい着いたポートピープルのように描写されている。それは、相模には古くから高句麗をはじめ朝鮮半島に興亡した国々から幾度か渡来者の土着集団が住み着いていたことを踏まえ、先住者を頼って流れてきたとの筋書きに仕立てたのだろう。
「相模」とは古代朝鮮語で「私の家」を意味する「サガ」に由来するという。神奈川県中央南部に高座郡寒川町がある。山形県の寒河江市も同じ類である。
相模川河口から約7km遡った左岸の低台地上、寒川町宮山(JR相模線寒川駅の一つ北の宮山駅、東名蛯名JCTから圏央道を新湘南バイパスに向い寒川北IC)には相模国一宮の式内社である寒川神社が鎮座する。古代には相模湾がここまで入り込んでおり、さらに8キロ上流の海老名市国分付近に相模国分寺があった。
平塚市と大磯町の間には大磯丘陵が隆起していて東端近くに標高168mの高麗山が構える。その南一帯が大磯町高麗である。高麗山の東の裾に高来神社が鎮座する。もとの名を「高麗神社、高麗権現社あるいは高麗三社権現」と称した。辺りには廃寺となった高麗寺があった。
『新編相模風土記』は「高麗の名は、古く当地辺りに高麗人が住したところにちなむ」としている。
『新編相模風土記』は「高麗の名は、古く当地辺りに高麗人が住したところにちなむ」としている。
丹沢山塊の南東麓には開ける秦野は、聖徳太子の盟友であった秦河勝が属する渡来系の秦一族に開拓された集落である。
これらのことから相模は何波にも及ぶ渡来人集団の入植により開発され、大磯一帯は高麗人のホームランドの感を呈していたとみられる。
高麗王若光も、大方の見方として、大磯に住んでいたことがあり、武蔵には大磯から移り住んだとするのが有力である。
先に引いた「続日本紀」延暦16年高麗郡設置の経緯を記した条文は、文脈から、各地に居住する高麗人を強制移住させたと解せられるが、果たしてそうであろうか?武蔵にも各地に先着の高麗人が住んでいたであろう。
いろいろと疑念が湧くところである!
二の鳥居を潜り、階段を登れば御神門、奥に新調なったと云う本殿。
御神門の掲額。
「高」と「麗」の字の間に「句」の字が小さく挿入されている。
「高麗」とは「高句麗」のことであると念を入れたもの。
御神門の掲額。
「高」と「麗」の字の間に「句」の字が小さく挿入されている。
「高麗」とは「高句麗」のことであると念を入れたもの。
朝鮮半島では新羅が百済・高句麗を滅ぼし、その勢いで同盟国唐を半島から駆逐し統一を果たした。その新羅を滅ぼして918年「高麗(こうらい)」が興った。その「こうらい」との取り違えを避ける計らい?!
本殿と参集殿を繋ぐ回廊の下を潜って改めて高麗家住宅を訪れる。
- 続く -
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