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廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる(その2)

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廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる(その2)

 (その1)は こちら をご覧下さい

 5月8日(日)、JR八王子支社・西武鉄道共催の「駅からハイキング」イベント「廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる」、9:40、JR八高線高麗川駅前出発。11:20、ようやく高麗郡建郡1300年記念の核心部旧高麗卿に到着。

 観光の順序としては、先ず高麗神社正面の鳥居を潜り神社に参拝してから裏に控える高麗家住宅を見学するのが普通だが、当日はコースの設定上、西武鉄道の係員に案内されて、神社の裏口に当たる高麗家住宅側の門から敷地内に入る。
 此処で、西武鉄道のイベントの常連はポイントカードにポイントを貰う。
 
 西武のイベントではコースの要所に矢印の案内が付けられていて至り尽せりである。JRのイベントは初めてでコースの途中に何も案内表示が出ていなくて心細い。参加者の列に入っていれば一々確認することもなく安心して歩けるが・・・・・

 国指定重要文化財の高麗家住宅。
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 江戸時代前期の木造建築で室町時代の面影を留める。
 代々の高麗神社神職の住居に使われていた。
 植込みの縁石に腰掛けて昼食休憩。
 右脇、植込みの引き込んだ場所に石碑が構える。
 野田宇太郎の作品の一節が刻まれている。
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 近寄ってズームアップ。
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  ぼろぼろの千二百余年も前からの         それでも人気ないこの武蔵野に
  この家系図の階段をのぼりつめると        同じ思ひの人々が群れ集った時
  はるか朝鮮奥地の茫々たる原野がみえ      ただひとすぢの名もない青い川だけは
  大陸から押し寄せる唐の大軍             天日に希望のように光ってゐたのでありませう。
  東の海辺にひしめく新羅                夢うつつ大和ぐらしに慰められて
  つひに七百年の歴史を無残に砕かれた      やがて亡国の恨みも忘れたので有りませう。
   高句麗の、うらぶれた敗亡の民に混って      ぼろぼろの千二百余年も前からの
  とある日の相模の海に漂ひ着いた          この家系図の階段を降りてしまふと
  わたくしの先祖若光の憂ひの顔が              わたくしはこの高麗村の
  今もまなかひに浮かび出します。           貧しい社の前に一人立ってゐるのです。
                                 あの・・・・・
  この錆びた高麗太刀                     ・・・・・・
  この虫づいた大般若経の古い写本         と、青年は口をつぐみ、
  そして伝来の仏像や獅子面が            ひろげた家系図を巻きはじめる。
  亡命といふ鈍いかなしい音となって         空しいが、然し根強い
  はてしない海原にのこした水脈のやうな      古代のやうな沈沈とした月明の夜ふけ
  わたくしの心の中に、                  この部屋だけが灯りを灯して息吐いてゐて
  今も時折鳴り響きます。                山上には累々とした祖先の墓がねむってゐる。
       
 668年、遥か昔、現中国北東部に興り、東アジアの強大国に成熟した高句麗が唐・新羅の侵攻を受け滅亡、700年に及ぶ栄華の歴史を閉じた。
 亡国の王族・廷臣・官人・将兵・民は大挙難を逃れてあちこちに逃散・流浪した。
 一部は海を渡り日本(当時は倭国)に渡来した。
 上掲の一節はその苦節の一端を語り伝える。

 その顛末を、現高麗神社宮司、先祖若光直系60代の孫に当たられる高麗文康氏は、若き日の若光の活劇譚風に小説に仕立てて世に出した。文康氏は限りなく五段に近い合気道四段。所沢に本拠を置く小林道場傘下の飯能道場で責任指導者を務められる。立ち廻りの描写は堂に入っている。フィクションと断りがあるが史実のポイントは抑えられているようだ。近々マンガ本が出されるとか。
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 (この本は神社の参集殿の社務所でも買い求めることが出来、週日に参詣客が少なく宮司が詰めておられる時にはその場で肉筆のサインを頂くことが出来る)

 上掲の1節の最後「山上には累々とした祖先の墓・・・・・」とは何のことだろうか?!
 石碑の左、高麗家住宅の右後、竹垣を廻らして立派な門が構える。
 「幽栖門」との額が掛かる
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 こちら側が外で、すぐ後ろに迫る山林側が内部。閉じられたままで立ち入り禁止。
 「幽栖門」の名から推し測るに背後の山地は然るべき「奥津城」か?!

 敷地の背後は奥武蔵山地南の末端。
 その山林は「立ち入り禁止」で「まむしがいます」と注意書きがある。
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 マムシの危険が禁止の理由ではないだろう!
 20年程以前、「マムシに注意」の立札が立てられていたが立ち入り禁止にはなっていなかったと記憶する。微かな踏跡が認められ、立札の存在が入り込む者のいることを告げているように思われ、かえって誘惑に引きずられそうでもあり、また躊躇われもした。

 今は、軽4駆なら登れるような簡易舗装の道が付けられている。「関係以外立ち入り禁止」。
 真冬にはマムシも心配なかろう。禁止の措置が執られる前に入って置けばと悔やまれる。
 昼食休憩後、神社本殿の脇を通り抜け正面に出て、改めて境内に入り直す。
 
 一の鳥居を潜り駐車場に入ると片側にトーテムポールを思わせる「天下大将軍」、「天下女将軍」の2体の「将軍標」の石柱が建つ。強面のようでもありユーモラスでもあり、朝鮮半島古来の民間信仰による魔除けの由。終戦後に建てられ、初めは木製だったものが腐食して倒壊の恐れが生じ今の石柱に建替えられた。
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 これまで見掛なかった石碑が建つ。
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 近寄ってアップ。
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 第50代桓武天皇の御代、延暦16年(797)公になった「続日本紀」巻第七、第44代元正天皇(草壁皇子の皇女、第42代文武天皇の姉、第40代天武天皇、第41代持統天皇の孫に当たる)、霊亀2年(716)5月の条の条文の1節が刻まれている。
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 原文は漢文だが、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヶ国にいる高麗人千七百九十九人(1955人とする資料もある)を武蔵の国に移住させ、初めて高麗郡を置いた」と読み下す。
 
 違和感を覚える。
 官撰の国史が事実をあからさまに伝えていないだろうことは昨近の状況から存分に察せられることである。

 高麗郡を置いたとは、詳しくは、当時すでに行政単位として確定していた武蔵の国入間郡の一部を割いて新たに高麗郡を設けたと云うことである。
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                          古代の武蔵国の概念図。
 
 地図では、この分割は地形を考慮しないで形だけを見ると何となく不自然に見える。

 郡は国の下部組織として、国の長官(守)である国司の管轄下の官制に組み入れられ郡司が任命される。
 正史の記録では新たな郡の首長すなわち郡司(大領)に就任したのは誰なのかを伝えていない。
 上掲石碑の前段は、大宝3年(703、文武天皇の御代)4月の条に「従五位下高麗若光に王(こにきし)姓を賜る」と記録されていることを伝える。

 高麗郡の初代郡司はこの「高麗王若光」であろうとされているが官撰国史には記録がなく、高麗家に伝わる家系図により判断されているのだが、その家系図とて後に記すように確証を与えるものではなさそうだ。

 文武は697年持統から皇位を譲られたが先帝は「太上天皇」を称して実権を保ち続け、実務は寵臣の藤原不比等が取り仕切っていた。不比等は系図では鎌足の子だが持統の異母弟との俗説がある。
 若光が「王(こにきし)」の姓を授かったのは先帝持統の没(702)後である。

 わが国では、壬申の乱に勝利した大海人皇子が皇位に就いて第40代天武天皇となり(672年)、「日本」の国号ならびに「天皇」の称号を公に定め、雑多な種族の寄り合いであった国体を改革し中央政府、なかんずく天皇に権力を集中した統一国家の確立が一挙に進められた。

 「聖徳太子は日本人ではなかった!」とは、日本の中世史研究に新境地を開拓された網野善彦先生が折に触れ発せられたお言葉である。
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 云わんとするところは、太子の時代には「日本国」の国号は未だ公になっていなかったとの厳密を尊ぶ信条から発せられたものである。

 若光に授けた「王」の姓は、朝鮮半島の国々の制度での位階であり日本国の制度から外れたものであって官位に結びつくものではない。単に高句麗の王族の出自であることを認めたに過ぎなかろう。
既に滅亡した国の王族の係累であることを、亡国後35年も過ぎてから認めることにどのような意味合い、日本国朝廷の思惑があったのだろうか?
 まさか亡命政権の樹立を唆したわけではあるまい!

 この時若光は朝廷から従五位下の位をすでに授かっていたと解せられる。

 従五位下は太政官ならば「少納言」、地方諸国を大・上・中・下にランク付けした上国の守の官位に適う。
 従五位ほどの叙位は正史に記録されるのが普通である。
 正史ではあからさまに出来ない裏の事情があったのではなかろうか?!! 

 若光の素性を探るに、日本書紀巻第二十七天智称制5年(666)正月、「高麗の使いの前部能婁等が朝貢、同10月、同じく大使臣乙相奄𨛃・副使達相遁・二位玄武若光等が朝貢」と記す。

 唐・新羅連合軍の大攻勢に際し倭国の救援を求める使節団であり、前段は差し当たっての前触れ、後段は国王の親書を携えた全権大使の派遣であろう。
 百済が滅亡する前、唐は百済と同盟関係にある高句麗を攻撃して撃退された。この時、倭国は高句麗の要請を受け派兵している。高句麗の期待は大きかったろう。

 ここに記された「二位玄武若光」が後の「高麗王若光」であろうと見られているが、果たして同一人物なのか襲名した後継者なのかは確証がない。

 当時の倭国は663年(天智称制2年)、唐・新羅の侵攻により滅亡に瀕した百済の救援に大軍を発し、白村江の会戦で壊滅の憂目。敗戦処理に追われていた。

 先帝第37代斉明はこの戦いで大本営を北九州に移す征途で崩御。

    熟た津に、船乗りせむと月待てば、潮も適いぬ。いざ漕ぎい出な!

 全軍を鼓舞すべく額田王に代読させた檄文が万葉集に載る。

 皇太子中大兄皇子は即位せず皇位空席。戦勝国唐や新羅の鼻息を嗅ぐのに精一杯で、親書の扱いに当惑、応対するカウンターパートが不在としてのらりくらりと体を躱し続ける。翌天智称制6年(667)3月、大和の飛鳥から近江の大津宮に遷都、668年2月、天智即位。形通りの儀礼を経て使節に倭国国王天智の返書が授けられる。内容は期待を外れるものであったが大使、上席副使等はそれを携えて帰国。

 若光はなおも朝廷工作に粘り強く当たるために腹心の配下等と残留。各方面に人脈を築いたであろう。その内に高句麗が滅亡、帰国の契機を失ったと云う。その後若光は何処でどのように過ごしたのだろうか?

 元々、イザと云う時には、王族・廷臣らの移住の下調べ・根回しに当たる役目を帯びて残留したのではなかろうか?高句麗の僧慧慈が聖徳太子の学問僧・ブレーンを務めていたことからも推し測られるように、朝廷には高句麗系の官人も少なからず侍っていたであろうし、大和一帯には高句麗系の集団も古くから住み着いていた。しかし同じ高句麗系と云っても幾重にも代を経ており、王族にしても政敵の間柄もいたであろう。
 倭国は、百済滅亡後大勢の移民を受け入れ有能な官人は朝廷のブレーンに組み入れた。その時とは事情が大きく変わっている。新たな大集団の移住はそれ程易しい事業ではなかったハズだ。

 従五位下の叙位は、あるいは壬申の乱における何がしかの功労に対する遅ればせながらの報いであろうか?
 若光が諜報機関を設け、築き上げた人脈を利して諜報活動を展開していたであろうことは容易に想像出来る。若光一派ばかりではない。反旧宗主派の一団や新羅、唐、旧百済も盛んに諜報活動を繰広げていたであろう。

 天智即位の直前、儀式に必要な神器の一つ草薙剣を熱田神宮から輸送する途上で隙を突かれ、新羅の僧とされる道行に盗み取られ国外に持ち去られる寸前、水際で奪回すると云う事件が起きた。このような行動が唯一人の力で起こせる訳がなく組織的な諜報活動の表れだろう。僧とは素性を隠す隠れ蓑、熟達した間者集団の一員に違いない。半島情勢を巡り微妙な国際関係の中に反新羅派の天智の即位を阻止しようとの行動とされる。

 この犯行を探知、追捕し神器を奪還した一団も手練の一団だったろう。両者の間に壮烈な惨劇が密やかに展開されたと想像される。
 これは氷山の一角に過ぎず、雑多な諜報組織が入り乱れて跳梁、高句麗にしても若光一派だけでなく反対派の一団も暗躍していたであろう。

 若光が大海人に通じたとすれば、本人あるいは配下が、残留していた高市皇子または大津皇子の近江脱出に係わった、あるいは北九州の海上に居座っていた唐の軍団の動向調査だろうか?
 少しばかり想像が走り過ぎたようだ・・・

 日本書紀壬申紀には武人若光の名は見えない。若光は中央を離れ、近江方、吉野方のいずれの陣営にも属さずに過ごしていたのであろう。
 近年、藤原宮跡から「若光」と読める文字が記された木簡の断片が見付かったと伝えられる。
 新政権の官人を務めていたと見る説もあるが地方の物産を進調した目録ではなかろうか?

 「続日本紀」延暦8年(789)10月、高麗朝臣副信の薧を伝える条に「祖父の福徳は唐の将軍・李芴勣が平城城を陥落させたとき我が国に来朝して帰化し武蔵に居住した」と記載されている。
 「日本書紀」天智称制7年7月「高麗の遣いが越の路より貢物を進調して来た。風波が高く帰ることが出来ない」とあるのがこれに照応するのだろう。
 福徳は玄武若光の義兄弟に擬せられ、肖奈公の出自。勇将で知られたと云う。書記は外交使節のように取り繕っている?が、そうではあるまい。

 第45代聖武天皇の御代、神亀四年(727)9月、渤海国の修好使節が出羽国に辿り着いた。渤海は高句麗の故地中国北東部に、高句麗の遺臣?らによって698年興こされた国である。
 渤海国第2代の王は高仁義将軍を帯同させた24名を派遣したのだが、蝦夷の地に漂着、将軍以下16名が殺害され主席の高斉徳ら8名が死を免れての来朝になった。当時の外交使節の来朝は対馬から北九州の大宰府を経るのが慣わしであり、正規の使節として扱われなかったようだ。聖武紀は「使いを遣わして慰問して時節に合った服装を支給した」と記す。

 「蝦夷・・・・・」は体よく取り繕ったマヤカシだろう!?
 「夷狄の襲来!」と慌てふためいた現地の役人が配下の軍勢を差し向け襲撃したのではなかろうか?、
 12月下旬にようやく入京、暮も押し詰まった29日に衣服を支給され翌正月3日大極殿にて拝賀を許される。これは臣下なみの扱いである。間を空けて正月17日政庁にて引見を受け親書を奉ることを得る。

 肖奈福徳の場合はなおさら、半島の情勢は伝わっている事であり、敗残の流民扱い、入国は認めたものの現地の役人が携行品を略奪、その一部を都に送り届けたのだろう。その中には高麗剣もあったと想像されるが、どうだろうか?

 これらの例のように朝鮮半島から渡来するには日本海側が距離的に有利なハズである。
 終戦直後や朝鮮戦争の折には半島からの密入国・密輸船が屡々裏日本各地にあるいは闇に紛れて来航したと云う。こう云う事例は逐一史料に採り上げられないものであろう。

 上古から古代に掛けて半島北部からの入植者も、わざわざ半島を南下して九州に上陸するよりも、日本海を渡り直接東北や中部日本に上陸し安住の地を得て住みつくのが普通だったのではなかろうか?日本の文化は北九州から畿内を経て東国方面に浸透してきたとする、物証のみを拠り所とするアカデミズムに毒された大家の通説は見落としを孕んでいると思えてならない。

 冒頭に引いた野田宇太郎の碑文では、高句麗の敗亡の民は相模の里に海路を直接漂よい着いたポートピープルのように描写されている。それは、相模には古くから高句麗をはじめ朝鮮半島に興亡した国々から幾度か渡来者の土着集団が住み着いていたことを踏まえ、先住者を頼って流れてきたとの筋書きに仕立てたのだろう。

 「相模」とは古代朝鮮語で「私の家」を意味する「サガ」に由来するという。神奈川県中央南部に高座郡寒川町がある。山形県の寒河江市も同じ類である。

 相模川河口から約7km遡った左岸の低台地上、寒川町宮山(JR相模線寒川駅の一つ北の宮山駅、東名蛯名JCTから圏央道を新湘南バイパスに向い寒川北IC)には相模国一宮の式内社である寒川神社が鎮座する。古代には相模湾がここまで入り込んでおり、さらに8キロ上流の海老名市国分付近に相模国分寺があった。

 平塚市と大磯町の間には大磯丘陵が隆起していて東端近くに標高168mの高麗山が構える。その南一帯が大磯町高麗である。高麗山の東の裾に高来神社が鎮座する。もとの名を「高麗神社、高麗権現社あるいは高麗三社権現」と称した。辺りには廃寺となった高麗寺があった。
 『新編相模風土記』は「高麗の名は、古く当地辺りに高麗人が住したところにちなむ」としている。
 丹沢山塊の南東麓には開ける秦野は、聖徳太子の盟友であった秦河勝が属する渡来系の秦一族に開拓された集落である。

 これらのことから相模は何波にも及ぶ渡来人集団の入植により開発され、大磯一帯は高麗人のホームランドの感を呈していたとみられる。

 高麗王若光も、大方の見方として、大磯に住んでいたことがあり、武蔵には大磯から移り住んだとするのが有力である。

 先に引いた「続日本紀」延暦16年高麗郡設置の経緯を記した条文は、文脈から、各地に居住する高麗人を強制移住させたと解せられるが、果たしてそうであろうか?武蔵にも各地に先着の高麗人が住んでいたであろう。
 いろいろと疑念が湧くところである!

 二の鳥居を潜り、階段を登れば御神門、奥に新調なったと云う本殿。
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 御神門の掲額。
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 「高」と「麗」の字の間に「句」の字が小さく挿入されている。
 「高麗」とは「高句麗」のことであると念を入れたもの。
 朝鮮半島では新羅が百済・高句麗を滅ぼし、その勢いで同盟国唐を半島から駆逐し統一を果たした。その新羅を滅ぼして918年「高麗(こうらい)」が興った。その「こうらい」との取り違えを避ける計らい?!

 本殿と参集殿を繋ぐ回廊の下を潜って改めて高麗家住宅を訪れる。 
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 - 続く -

続きは こちら  をご覧下さい


廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる(その3)

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廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる(その3)

 (その1)は こちら をご覧下さい   

 5月8日(日)、JR八王子支社・西武鉄道共催の「駅からハイキング」イベント「廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる」、9:40、JR八高線高麗川駅前出発。11:20、高麗郡建郡1300年記念の核心部高麗神社に到着。祭神である始祖高麗王若光を偲ぶ。

 到着して西武の係の誘導でコースの順路に従い神社の裏に当たる高麗家住宅側から敷地内に入る。昼食休憩後一旦神社正面に移り、参拝を済ませて高麗家住宅の敷地に戻る。その前に高麗家に伝わる家宝類とりわけ高麗太刀が拝観出来るかと本殿脇の参集殿に入り込んでみたがそれらしき催しの気配なく、高麗家住宅の方に開陳されているかと期待したが思惑外れ。

 高麗家に伝わるとする高麗太刀が玄武若光の佩刀とすれば将に国宝級の逸品になる。是非とも拝観したいものだが、お国に召し上げられているのかも?!
(16/7/16(土)~8/31(水)、埼玉県立「歴史と民俗の博物館」にて高麗郡建郡記念とて特別展示の予定の由。ただし若光の佩刀ではなく鎌倉時代作刀の重要美術品)

 住宅裏手の山が気になる。

 戦後間もない頃、異能の作家として一躍注目を浴びた坂口安吾の異色の紀行文集「安吾新日本地理」の中の一文。「高麗神社の祭の笛」の一節。
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 安吾は偶然秋の例大祭の折に神社を訪れ獅子舞の奉納を見物するチャンスに恵まれた。獅子舞いは山上の昔の社殿跡で演じられた。「この山は自然の小丘を利用して円形にけずって古墳に用いたものらしくこの山が墳墓だという伝えは昔からあったもののようだ」、「その山上の広場はせいぜい三百坪ぐらい、ホコラの前の地面を除いて概ね熊笹が繁っている」と記す。

 折よく通り掛かった神官にこのことを訊ねてみる。若光の墓があると云うのは本当かどうかと。
 「知らない」との答えだが「おトボケ」か!?

 だが、中腹に水天宮が祀られていて、手水舎の奥に登り口がある、と教えて戴く。

 早速、表参道に戻り道標に従い山道に入る。  
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 「登り10分ほど、急斜面で岩場や滑りやす箇所がある」との注意書きがある。
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 雨や雪の場合のために登り口に遥拝所が設けられている。 
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 道は階段状に整備され鉄パイプの手摺も設けられ山道と恐れる程のものではない。

 3分足らず、鳥居が見えその先、開けた小広場の中央に祠が佇んでいる。祭神は安徳天皇、江戸時代末の建立。高麗神社の末社とされる。鳥居は平成5年の建立。
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 2基の塔は先代第59代のお内儀の建立
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 安吾の文章にあった「山上の広場」とは此処だろうか?
 それにしては広さは百坪あろうかと云う程度。熊笹も見られない裸地。
 安吾が登ったのは別の径だろうか?

 祠の左斜め後方、さらに進む径が認められる。通行止めの措置。
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 左の隙間から入り込んでみる。
 降り勾配で20秒ほど、左下から上がってくる径にぶつかる。
 辺りは階段状にブロック分けされた墓地。
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 野田宇太郎の碑文にあった累々たる祖先の墓とはこれらだろうか!

 上方に向かう。前方に鳥居が見えてくる。
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 鉄柵で囲われた敷地の中に石柱の柵で囲われた聖域。
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 静寂に包まれ侵し難く厳かにして聖なる気が漲る。
 沈思黙禱、心ばかり心身を浄めたツモリ!?
 恐る恐る足を踏み入れる。

 中央に「奥津城」の銘板が嵌められた石材のミニ築造物。
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 傍らに「故高麗澄雄大人命七年祭」と書かれた木柱が建つ。
 先代第79代宮司の墳墓。

 後方に3基の土塚。
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 左から順に「伝若光之塚」「伝家重之塚」「伝弘仁之塚」。
 比較的新しい筑造に見えるが果たしていつだったろうか?

 聖域の左奥隅に慎ましやかに石柱が据えられている。
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 柵の施主が当代宮司の文康氏であることを告げる。平成25年10月の施工。

 囲いの外、一段高い所。  
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 高麗家累代の廟
 脇に第57代宮司博茂氏の顕彰碑
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 安吾は高麗神社を訪れた際、時の宮司の御子息(第79代澄夫氏)に高麗家に伝わる家系図を拝観させて貰った由。それには「『これによってつき従ってきた貴賤相集まり、屍体を城外に埋め、また神国の例によって、御殿の後山に霊廟を建て、高麗明神と崇め、郡中に凶事があるとこれに祈った。長子家重が家を継いだ。天平勝宝三年に僧勝楽が死んだ。弘仁とその弟子の聖雲とが遺骨を納めて勝楽寺を建てた。聖雲は若光の三番目の子である。』と云う意味の前書きがあって、そこから系図になっている。 その系図は

  家重、弘仁、清仁、(以下略)

とあって、家重は死んだ人の長子であり、光仁は家重の弟らしく、又その弟に当る三男が聖雲らしく、清仁は弘仁の子である」と記している。

 「城外」とは良く分からないが、「御殿」とあるから恐らく一族の首領の住居は今の高麗神社の境内にあって塞のような外構をしていたのではなかろうか?「屍体を埋めた場所」が「後山」なのか別の場所なのかもはっきりしないが、高麗明神と崇めた山上の霊廟が高麗神社の前身になるのだろう。

 安吾が記した「社殿跡と伝えられるせいぜい三百坪ぐらいの山上の広場」とは此処のことに違いない。

 ところで、現存する、すなわち安吾が見せて貰った家系図はオリジナルではないと云う。オリジナルは28代栄純(えいじゅん)の時、正元元年(1259)11月に火災が起き、系図のほか、高句麗以来の宝物が消失したと伝える。このため、高麗氏一族および旧臣達が集まり各家の古記録などから再編したのが現在の「高麗氏系図」と云う。

 安吾が見せて貰ったとき、系図の初めの部分、前掲の『これによって』の前の方が滅失していて、「虫が食った」とのことだった由。安吾の見たところ「虫が食った」のではなく人の手で引きちぎった痕跡が明らかだったとのこと。

 だから、「『屍体を城外に埋め』とある屍体とは若光のものらしいと想像されるだけで、若光と断定できるようにはなっていない。また若光が高麗家の第一祖だと云うことも引き裂かれた系図からは判定できない。その長子の家重から系図が始まるが、家重が高麗家の第二祖だというような番号も系図には示されていない。若光の先にも誰かがいたかも知れない」と。

 安吾は、系図について「後世の子孫が引き裂かねばならぬ理由があったのだろう。たぶん国撰の史書と異なる記載があるために、後世の子孫にとって当時の事情として都合の悪い記事があっため・・・」と推測する。なお明治18年内閣修史局の要求に応じて差しだし、内閣修史局で模写をつくり原本を本主に返したと云う経緯がある由。「書き出しの部分を破り捨てたのはこの時か?」とも。

 「続日本紀」の記事からは高麗人の高麗郡移住は国家権力による強制移住のように読み取れる。果たしてそうであったろうか?

 二位玄武若光が高麗若光と同一人物だとして、高句麗滅亡の668年から高麗郡建郡の716年までの48年間、ただ漫然と時を過ごしていたとは考えられない。亡命の王族、廷臣、官人、将兵、民らの支援・朝廷工作に尽力・奔走していたであろう。
 既に各地に土着していた古くからの移住者にも働きかけ、高麗人としてのアイデンティティーを保ちながら潤いのある暮らしができるコミュニティ作りを目指したに違いない。
 すなわち、高麗郡の設置は若光ほかの自主的な意図・願望が大いに与っていたのであろう。

 このことに係わる若光の行動は、渡来人の移住は朝廷の施策の沿うものとする官の一連の記録と整合しないことになる。
 子孫としては、時の為政者に遠慮することになったのだろう。

 高麗氏は、若光の遺言であったのだろうか、若光以来、五百有余年、26代にわたって高句麗人の後裔である一族・重臣とのみ縁組をしてきた由。しかし、高麗家の系図には次のような風に記されていると!「豊純、仁治三年(1242)三月四日没。当家はこれまで高句麗から従えてきた一族重臣とのみ縁組をしてきたが、深い子細があって駿河の岩木僧都道暁の娘を室とした。これで源家の縁者となったから・・・」、すなわち鎌倉幕府の御家人になった。道暁とは頼朝の異母弟の子とされる。

 「深い子細」とは、想像するしかないが、武家政治が始まりそれまでの律令制度のもとでの国・郡の体制が守護・地頭に侵犯されるに至ったことに関わりがあろう。それまでは、当初の志を貫いて高麗人としてのアイデンティティーを保ち続ける同根・同系集団として存立していた。それが時勢の流れで脅かされるに至った。「寄らば大樹・・・」と云う次第であったろうか?

 感慨を胸に立ち去ることに。
 石柱柵で囲われた聖域を出て鉄柵の際に石碑が据えられている。     
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 何やら和歌が刻まれているようだが部分的に摩耗ししかも達筆で読み取れない。

 この広場まで、高麗家住宅の裏から簡易舗装の道が通じているが「徒歩・車両とも通行禁止」
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 この広場?の先の方、上に向かって余り人は通らないらし細い径が伸びている。
 今回はウオーキング・イベントに参加中であり余計なことに時間を費やすわけにいかないので、その先の探索は打ち切り引き返すことに。

 帰路は水天宮の方には向かわず、真直ぐに降る。

 この径は一度通ったことがあるのを思い出す。
 途中で右の沢に降ると、戦時中に操業されたマンガン鉱採掘の大宮鉱山跡に出る。貧鉱だが戦時非常時体制で採算度外視で操業された由。「ズリ」が散らばっているだけで鉱山跡の片鱗も留めない、と云うより元々大した設備も設けられていなかった、廃れた「夢の跡」。
 こちら lをご覧下さい。

 ここで拾った「ズリ」。

 ズリの外側は黒色だが内部が淡いピンクや紅色がかった汚い灰色や茶色をしているものがある。
 マンガン鉱は宝飾品になるバラ輝石などの鉱石を随伴することが多い。
 そのような鉱石を拾いに来るマニアの仕業だろう。 ハンマーで割られたものが散乱している。
 バラ輝石の色合いには程遠い。マニアが確認して捨てていったのであろうから、珍重されるようなものではないだろう。

 この沢を詰めて右に這い上がると、先ほどの広場の上方で下から伸びてくる径に出るのであった。その道をなおも進むとゴルフ場のフェンスに出合う。フェンス沿いに辿れば一般道に出られる。
 沢の水は民家の敷地内をドブになって流れる。
 鉱山跡へは民家と神社の間の細い径を行く。
 この径を、鉱山跡のある沢へ降らずにそのまま登っていくと高麗家の「聖域」に行き着く。

 境内に戻ってホット一息。

 安吾の紀行文の表題は「高麗神社の祭の笛」であった。獅子舞いに合せて奏でられる笛の音は、獅子舞いにそぐわず哀調切々としてハラワタに染入る如く、文章では表すことが叶わないのが痛恨の至りのように記している。強いて言葉で表せば、昨近の若年者には分からないだろうが、その昔の子供たちの遊びの「隠れんぼ」の、
 「もういいかァーい」、「まァだだよーォ」
という単調な呼び声の繰り返しに似ていると。
 安吾はその笛の曲の分析に可成りのページ、字数を費やしている。

 参集殿の階段上り口の脇に釈迢空(折口信夫)の歌碑が建てられている。
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 近づいてみる。
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 達筆で読めないが、

    山かげに 獅子ぶえ おこる しし笛は 高麗の むかしを 思へとぞ ひびく

と刻まれている。

 手水舎の右奥にひっそりと加倉井秋を の句碑。
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 こちらは脇に解説版がある。
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 これは御愛嬌!?
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 - 続く -

       続きは こちら   を ご覧下さい

廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる(その4)

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廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる(その4)

 (その1)は こちら をご覧下さい  

 5月8日(日)、JR八王子支社・西武鉄道共催の「駅からハイキング」イベント「廃線と日高市の産業・歴史を訪ねる」、9:40、JR八高線高麗川駅前出発。11:20、高麗郡建郡1300年記念の核心部高麗神社に到着。祭神である始祖高麗王若光を偲び、高麗氏1300年60代の盛衰に思いを馳せる。

 西武池袋線武蔵横手駅から北向き地蔵に向かうポピュラーなハイキング・コース途中のビューポイントに五常の滝がある。
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 五常とは儒教で説く5つの徳目、仁・義・礼・智・信を指す。
 滝の水流が五条に分かれるところから五条は五常に通じるとして名付けられたと云う。
 以前は5スジに見えたのかもしれないが、最近では水流が減ったのか落ち口が変化したのか2スジにしか見えない!
 ちなみに、武士道では五常の徳目を重んじる。武士が着用する袴には5条の折り目が付けられる。

 16,7年ほど前、此処に日高市教育委員会の「高麗氏終焉の地」とする解説版が据えられていた。いわく、太平記の時代(1352)「32代高麗多聞房行高は、一族郎党を結集、義良親王を戴く新田義宗の軍に参じ武蔵の地にて足利尊氏勢と戦い壊滅。此処に逃げてきて全員自決の悲劇を演じた」。

 そうであれば高麗家は廃絶した訳だが、事実は、行高の二人の弟は合戦で戦死したが行高は上野国(今の群馬県)に逃げ隠れ、やがて尊氏に許されて領地に戻る。行高は「多聞房」を名乗るように、何代か先の先祖が、役行者が興した修験道に帰依したことを継いで、その後代々の子孫は修験者に連なった。行高は臨終に際し「我が家は修験であるから、今後何事があっても軍事にたずさわってはならない」と堅い戒めを遺したと伝えられる。
 以来、高麗氏は孤立を守り続け、明治になって神仏分離が施行されると56代衍純は神職に戻ることになった。

 高麗氏が息を吹き返すのは朝鮮併合(明治43年、1910)後、朝鮮統治の象徴として「内鮮一体」のスローガンを高麗神社が表していると持ち上げられたことが与ったとされる。

 参道の脇の杉並木。「内鮮一体」悲劇の犠牲者、李王垠殿下、李王妃方子(まさこ)女王殿下御手植えの杉が並んで育っている。
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 朝鮮半島では4世紀半余り続いた高麗(こうらい)に代わって1392年に興った朝鮮が1897年(明治30年)日本政府の政治圧力により国号を韓国に変更した。大韓帝国の成立である。

 李垠(りぎん/イ ウン:1897~1970)は朝鮮王朝の血を引き、大韓帝国の皇太子となり、教育の名目で実質的人質として内地に送られた。1910年日韓併合により大韓帝国は消滅、日本の準皇族の扱いを受けることになる。1920年(大正9)、日本の皇族、梨本方子妃殿下と政略結婚、戦後に臣籍降下されるも韓国から帰国を拒まれ日本に在留。望郷の念を抱きつつ病に侵され、1963年日韓国交正常化により帰国が叶ったもののその時には正常な意識を失っていた。

 一方、“日鮮の架け橋”“日鮮融和の礎”のスローガンの元、日本の朝鮮支配を正当化するという政治的名分の生贄?にされ流転の人生を送ることになる方子女王殿下はよく夫に尽くされ、夫君に伴って渡韓、福祉活動に献身され、ご逝去の時の葬儀は準国葬の扱いだったと伝えられる。身をもって“日韓の架け橋”を実践された。
 誤った歴史教育・歴史観に発するヘイトスピーチなど断じて許してはならない!
 
 今の皇太子殿下も参詣しておられる。   
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 杉並木の根元には政治家の名も目立つ。
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 この神社に参詣した後内閣総理大臣に就任した政治家が幾人か出たためこの神社は出世開運の神として崇められ「出世明神」の異名を得るに至った。
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 JR八高線高麗川駅から神社に至る道路が高麗川を渡る橋は「出世橋」の異名を持つ。

 参詣者には著名作家や文化人も多い。  
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 異色!?の人物に極真空手の創始者、初代館長の大山倍達がいる。 
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 程々にして神社を辞し聖天院に向かう。

 参道入口にて西武の係員の誘導を受けて山門(日高市指定重要文化財)に向かう。
  
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 真言宗智山派の寺院、高麗山聖天院勝楽寺。
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 高麗氏の始祖若光ならびに高麗一族の菩提を弔うために僧勝楽(天平勝宝三年、751、没)が開基。前出「高麗氏家系図」の前文に「天平勝宝三年に僧勝楽が死んだ。弘仁とその弟子の聖雲とが遺骨を納めて勝楽寺を建てた。」とあるように、その弟子若光の三男聖雲と孫の弘仁が同年建立した勝楽寺が聖天院の前身とみられる。聖雲は弘仁の年下の叔父とされる。

 この勝楽寺が何処にあったのかも解明が待たれる問題である。

 聖天院の宗派は、始めは古代奈良南都六宗の一派法相宗だったのが南北朝時代の貞和年間(1345~1349)に僧秀海が真言宗に改めて中興の基としたと云う。

 聖天院は若光が半島からもたらしたと伝える聖歓喜天を本尊とする由。
 如何とも理解しがたき事柄である。

 聖歓喜天は天台・真言の密教が崇めるシンボルである。
 天台宗・真言宗は、平安遷都後、最澄・空海がそれぞれ延暦24年(805)、大同元年(806)唐から帰朝して興した宗派である。勝楽寺創建時とは半世紀余りの隔たりがある。しかもこれら新興宗派は官製仏教の伝統を誇る奈良南都六宗とは敵対関係にあった。
 
 秀海が法相宗から真言宗に改宗した事情・経緯については残された記録もなく、叡智をを絞って想像を廻らすしかない。

 密教と修験の修行とは不可分である。役行者が興したとされる修験道と天台・真言密教と結びつきについては、浅学にして、詳らかでない。

 高麗氏が修験道に帰依したのは23代純秀(名を麗純と改める、1199没)の時、56代大記に至るまで続く。
 純秀が修験に接したのは、一説には、百人一首;

     もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし

で知られる、天台座主にも就いた園城寺再興の功を担う大僧都行尊(ぎょうそん、天喜3年(1055)~ 長承4年(1135))が坂東巡行の折、高麗家に立ち寄った機縁によると伝えられる。

 修験道の開祖役行者と高麗若光とは同時代人である。全く接触がなかったとは言い切れまい。
 想像を逞しくすれば、役小角が帰依者を従えて山野を跋渉していた頃、目的は異なるとは云え、いや、異なるとは云い切れないかも知れないが、若光も山野を駆け巡っていたであろう。

 山門に上がる階段の右手前に若光の墓とされる「高麗王廟」が建つ。
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 この墓と「高麗氏家系図」の前文にあるとされる「屍体を城外に埋め、・・・・・御殿の後山に霊廟を建て、高麗明神と崇め・・・・・」とはどのような関係にあるのだろうか?
 また、「弘仁とその(勝楽の)弟子の聖雲とが遺骨を納めて勝楽寺を建てた」とある勝楽寺が聖天院の前身だとすればこの「高麗王廟」はいつどのような経緯で建てられたのだろうか?

 廟の前に狛(高麗)犬ならぬ狛羊?が建てられている。
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 傍らに羊の顔面に似た自然石の像も据えられている。
 上野(群馬県)の多胡郡建郡に係わる羊大夫を思い起こす。

 高麗王若光に関わる事柄には多くの疑念・謎がある。

 本堂は平成12年(2000)改築された。
 参詣は有料。それでなくてもウオーキング・イベントに参加の途上で余裕がない。

 ウオーキングはここからJR八高線の高麗川駅に向かうコースとカワセミ街道を西武池袋線高麗駅に向かうコースとに分かれる。
 西武のコースへは西武の係員が誘導してくれて、途中の要所には矢印の案内標識が掲示されている。

 近年、聖天院北方の後背地、奥武蔵山地南端の丘陵中腹のゴルフ場造成工事に伴う発掘調査により、8世紀半ばの造立の寺院らしき遺構が見つかり、勝楽寺を継いだと見られる高岡廃寺跡として、日高市の文化財に指定されている。
 ゴルフ場敷地内だろうが、市の指定文化財であれば見学の便が図られているハズだが、寄り道するには遠すぎる。

 ゆるーい坂を上ると右に数体の石仏が前に並ぶ粗末なお堂が建つ。「高麗坂東観音霊場 第31番 岩本山 如意輪堂」との看板が眼につく。

  この辺り県道15号がすぐ南を通っているから車の往来も激しくない。街道のすぐ北には奥武蔵山地の裾が迫っている。南に下がり勾配僅かで高麗川の岸に出る。対岸には高麗丘陵がせり上がっている。陽当たりは良いが人家は疎ら、耕地も限られ、水田耕作には不向きに出来ている。
 このような現状から若光の時代の様相は推して知るべしである。
 1800人に及ばんとする人口を養うに足る土地柄ではなかったろう。

 日和田山の登山口入口を右に見て少し下ると、高麗本郷の交差点で県道15号に出る。

 それを左折、後戻り気味に僅か、天神橋の手前、左に、旧新井家住宅の古民家が建つ。江戸時代末か明治の始めの建造とされている。昨秋、国の有形文化財(建造物)に登録された。 
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                         母屋 

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                                客殿

 見学は無料だが、余裕がない。

 高麗郡の郡衙すなわち高麗王若光が政務を司った郡の政庁の所在地が何処であったのか興を惹かれるが、その場所は確定されていない。

 一説にはこの高麗本郷の辺り、豪壮な構えの旧新井家住宅から連想したくなるが、まるで時代が違う。別説では高麗神社の境内の辺りが尤もらしいとされる。

 しかし郡の政務を執るからには関係深い隣接の入間郡の郡衙や何よりも国の政庁のある国府との交通の便を考えると古代官製幹線道路の通る東山道沿いとみるのが妥当のようだ。

 入間郡の郡衙の所在地も確定されていないが、古代東山道沿いに当たる川越市の北西部鶴ヶ島市との境に近い霞ヶ関にある「霞ヶ関遺跡」に比定するのが有力になっている。
 こちら  をご覧下さい

 高麗本郷の交差点で右折、鹿台橋が架かる。
 天神橋ともども付け替えられて何年が経ったろうか。工事は数年掛かりで車の渋滞を招いていた。
 その前は粗末な狭い橋で歩いてここを通るのに、大型トラックと出合うと恐怖を覚えたものだった。護岸の整備はまだ続いている。

 高麗本郷の南一帯に秋には5百万本の曼珠沙華が咲き誇るという巾着田が広がる。

 高麗川がΩ字型に屈曲して出来た地形で内側に平地が出来ている。
 この土地は、不毛の荒れ地に強制移住された渡来人が生き抜くために高度な土木技術を駆使して川の流れを湾曲させ耕地にしようと造成したものとの俗説が広まっている。高度な技術を駆使するための組織力、それら職能集団を束ねるリーダーの並々ならぬ統率力が高麗王の功績に帰せられている。

 山地から平野に流れ出る河川は、浸食谷を作らずに曲流することがあり、このようにしてできた河川地形を自由蛇行(自由曲流:free meander)と呼ぶ。この辺り高麗川は蛇行を繰り返す。  

 巾着田では、秩父山地から関東平野に流れ出た高麗川が、左岸は日和田山で露頭が見られる堅い岩石のチャートが迫っていて右岸は関東平野の発生期、前期更新世(約170万年前~)の飯能僧と名付けられる、シルト、砂、礫の堆積物から成る軟らかい地層で、川の流れは右岸を浸食して左へカーブする。この円は半径300mほどで、円弧の外側(右岸)は流水の浸食作用が強く働くため、切り立った崖(攻撃斜面:undercut slope)となる。逆に、円弧の内側(左岸側)の高麗川河床には、上流から運ばれてきた様々な礫や砂が堆積し、広い河原(滑走斜面:slip-off slope)を作っている。この河原は透水性に富み水田耕作には不向きである。
 こちら をご覧下さい

 現在であっても、鉄パネルを打ち込んで崖崩れを防護する工法を用いずに台地の端を削る工事など考えられない。巾着田は人工の造成地ではなく長年月を掛けての自然の営力の結実である。

 武蔵の国への渡来人の度重なる強制移住は当時未開であった原野の開拓に渡来人の高度な技術を役立てようとの大和政権の為政者の思惑が強く働いたとされる。その実例として、何時の頃からか、巾着田が引き合いに出されるようになったようだが、それこそ我田引水というものである。

 鹿台橋の交差点で県道15号に分かれ左折。車道を行かず脇道を高麗駅に向かう。
 途中、水天の碑が建つ。  

 若光の時代からずっと下った江戸時代以降においても高麗川は暴れ川であった。 

 台の高札
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 江戸幕府の掲示施設。この場所が主要な街道に面していたことを物語るのか?
 ここで車道に出る。

 高麗名物「高麗豆腐」の店

 <ザル豆腐>、<ゆば豆腐>などが名高い。晩酌が進む。
 <みそ漬豆腐>、黒(¥550)・白(¥450)は絶品。
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 西武池袋線高麗駅着
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 駅前に一対の「将軍標」が建つ。こちらはハリボテ。

 - 了 -

これから何処へ?

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街はずれの一角にて・・・
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!?!?!?

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奥秩父・荒川源流 入川渓谷ハイキング(その1)

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「秩父トレイルハイキング:奥秩父・荒川源流 入川渓谷ハイキング」 (その1)

7月16日(土)、西武鉄道、秩父鉄道など共同開催の「秩父トレイルハイキング:奥秩父・荒川源流 入川渓谷ハイキング」に参加して参りました。

 受付:秩父鉄道 三峰口駅前 8:30~10:30、参加費2000円(バス代)、自由歩行。
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                                             右下をクリックすると拡大表示されます

 飯能発7:19の西武秩父行、座席には若干空席がある程度、殆んどは終点西武秩父で秩父鉄道に乗り換える、このイベントの参加者と見受けられる。
 お花畑駅で三峰口行に乗り込む。座席は満席。立客を含め7割方の混み具合。
 8:42、三峰口駅到着。
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 何年振りだろうか!懐かしさが込み揚る。雁坂トンネルが完成して国道140(彩甲斐街道)が甲州側「みとみ」方面に通じて以来素通りすることが多かったのも淡い想い出になった。
 駅前の家並みも懐かしい。
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 想い出に浸ってはいられない。ハイキングスタートの川又までは主催者手配のバスの便(秩父鉄道観光バス)利用だが、あっという間に長蛇の列。
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 補助座席を含め定員53名(?)の特大バス8台を動員してのピストン輸送だが続々と到着する参加者に到底追い付かない。
 1時間近くの待ち合わせで9:40の乗車。

 このイベントの利点はハイキングスタート地点まで主催者がバスの便を手配してくれて電車を降りてからの乗り継ぎに左程の時間を要しないことと心得ていた。全くの目算違いであった。スタート地点までは路線バスが通じている。それは本数が少なく途中で乗り換えとなり、計画を組むのが煩わしい。このイベントでは都合の良い電車を利用し、安易にバスに乗り継げる利点を重んじ参加を決めたものだった。

 後悔先に立たず!
 
 10:10、栃本の先の川又バス停着。ここからハイキング スタート。
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 栃本には国指定記念物(史跡)の関所跡がある。
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 武州と甲州を繋ぐ秩父往還の秩父の出入り口に当たり、此処は雁坂峠路と十文字峠路との分岐点(合流点)になる。関所は此処を往来する通行人を取り調べるため慶長16年(1611)に設けられた。関所跡の建物は辺りの人家とは不釣り合いな程に豪壮である。

 栃本の集落は、山の南端に開けた明るい斜面に人家が散在して、都会人にはのどかな山里と見られ、失われてしまった残り少ない「ふるさとの原風景」と云った趣を醸し出していた。
 往時の秩父往還をトレースする国道140号はかって栃本の集落を通り、関所跡の前にはバス停があって、少し離れて公共の駐車場もあった。
 滝沢ダム建設の頃、ループ橋が建造され国道140号は面目を一新、栃本集落の真下を川又までトンネルで通り抜けるようになってしまった。
 かつては、川又が秩父往還の秩父側の車の行き止まりであった。

 雁坂峠や十文字峠方面への基地となる、登山者の定宿「扇家山荘」が構える。
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 奥秩父連嶺主脈の中央辺り、標高2082mに位置して武州と甲州を分ける雁坂峠は、北アルプス越えの針ノ木峠2,541m、南アルプス越えの三伏峠2,580mと並んで、日本の三大峠の一つに数えられる。
 奈良時代には早くも官道が通じ古くは日本武尊が越えたと云う伝説が残る。
 信じられないであろうが、雁坂トンネルが開通する以前は、雁坂峠を越える登山道が国道140号であった。
 登山道は川又から国道少し先に行った所に登山口がある。

 マイカー登山にとって雁坂峠越えはマイカーの回収が問題になる。
 「扇家山荘」ならびに雁坂峠秩父側直下に構える扇家山荘系列の「雁坂小屋」利用者には、雁坂トンネルを抜けた「みとみ道の駅」の駐車場まで回送サービスが得られ便利である。だが、何故か利用者は少ないと云う。
 今時、雁坂峠や十文字峠に秩父側から向かう登山者は中央高速を甲州の勝沼ICで降りて国道140号を西沢渓谷入口に向い、雁坂御トンネルを抜けて川又に至ると云う。

 「扇家山荘」の僅かに先で国道に分かれ「入川国際観光釣場」の案内に従い左下に荒川源流の入川沿いに伸びる「林道入川線」を入る。
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 この奥、源流地域は東京大学所有の演習林が開ける。
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 昔は分かり易く「農学部」と称していたが時代の流れに従い内容が分かり難いハイカラ?な名を称えるようになった。

 分岐から20分ほど、観光釣場の駐車場の取り付きに公共トイレがある。
 道路を挟んだ対面に前田夕暮の歌碑が建つ。
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 達筆で読み取れない。

   山を開き土を平坦(なら)して建てし工場(いへ) その隅にしろし栃の太幹

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   生ること かなしと思う山峡は はだら雪ふり月照りにけり

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 こちらはお手上げ!

 前田夕暮、神奈川県出身、明治16(1883)~昭和26(1951)。島木赤彦には批判されたが、若山牧水、北原白鳥などと交友のあった詩・歌人。作風は定まりなく戦時中には体制協力の作品を著したこともあるとか。
 父の事業を受け継ぎ大正8年(1919)関東木材合資会社の社長として小鹿野の両神で事業を営む。大正14年(1925)、大滝入川に事業地を移す。
 昭和20年4月、戦火を避けて都内から入川谷に疎開し、翌年12月までの1年8ヶ月間を渓流を見下ろす崖上の小屋に妻と住んだ。公共トイレの上方の崖に往時の夕暮の旧居が廃屋となって残っていると云う。63歳の時である。

 上掲、1番目の歌碑は平成2年建立、歌は両神時代、41歳の頃
 次は、平成26年建立、歌は昭和21年64歳の頃
 加齢によるばかりではないであろう心境の変化が表れている。
 
 此処の手前にバンガロー30棟あろうかと見えるキャンプ場が開ける。当日は貸し切りでハイキング イベントの参加者はオフリミット。
 この手前にキャンプ場の案内標識があった。
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 前田夕暮を知らなければ名前の由来を取り違えるだろう。

 此処には、5年程以前、平成23年5月に所属するクラブの仲間とマイクロバスを仕立てて来たことがある。生憎の雨模様、山歩きに慣れない者も混じりトイレを探して右往左往、雨具を着込むのに手間取ったりのロスタイムが多く、足取りも重く目的地に至ること覚束なく途中から引き返した。その頃には雨も止んでいたこととて無念の思いをしたものだった。

 僅か5年ばかりだが辺りの様子が変わっている。一言で云えばリニューアルされた感じ。事務所やトイレは建替えられた。以前にはなかった建物が増設され駐車場もスペースが増え整備された。
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 駐車場は釣り客専用の如く。もう此処までマイカーを駆ってやって来る気力は失せたが、一部の有料の箇所はハイカーなどにも開放されるのか気になるところ。

  林道はさらに先へ伸びる。
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 だが、観光釣場建屋敷地の先にゲートが設けられ一般車通行禁止。
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 ハイカーはゲートの端の隙間を通り抜ける。
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  「埼玉森林管理事務所」の立札。
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 「演習林」と「水源かん養保安林」とのすなわち「東京大学」」と「埼玉森林管理事務所」との管轄はどのように区分けされているのだろうか?余計な詮索!

 この林道にはかつて木材搬出用の森林軽便軌道が敷かれていた。
 この部分は「夕暮」が社長を務めていた「関東木材合名会社」によって敷設された。
 その残材がガードレールに使われていたと云うが・・・
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 渓流は釣り場になっている。
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 ゲートから25分、矢立沢出合いの林道分岐着。
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 林道は右上に伸びるが先で行き止まりになる。
 林道に分かれて歩道が渓谷沿いに伸びる。
 これまでの林道に比べて道幅が狭く拳大の角張った転石が散乱して歩き難い。
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 山側の崩落個所もある。
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 ここから先森林軌道跡が残っている。
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 此処から先の部分は、昭和11年(1936)東京帝国大学によって設置された。
 さぞかし難工事であったろう。
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 山側に石垣を築いた箇所もある。
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 この辺りから折り返してくる先発隊の列に行き交うようになる。
 切れ目なしと云いたくなる長い列が続き辟易する。
 中にはマナーが良いとは云えない者もいて、突き落とされないように水溜りや泥濘を厭わず出来るだけ山側を歩く。
 自然を堪能するには、人出を避けてソロで呑んびりと散策するに限る。
 この種のイベントには健脚自慢らしきが多い。辺りの景色などそっちのけで只々先を急ぐ。それ程健脚を誇りたいならトレランの方が良いのではと憐れむ。
 
 新緑の時季は過ぎているが緑に映える渓谷美が続く。
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 対岸に東京発電の入川取水口関係のが建物が見える。 
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 取水口入口
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 立ち入り禁止になっている。
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 林道分岐から一時間でハイキング折り返し点の赤沢谷出合い着。
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- 続く -

続きは こちら をご覧下さい。

奥秩父・荒川源流 入川渓谷ハイキング(その2)

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「秩父トレイルハイキング:奥秩父・荒川源流 入川渓谷ハイキング」(その2)

 7月16日(土)、西武鉄道、秩父鉄道など共同開催の「秩父トレイルハイキング:奥秩父・荒川源流 入川渓谷ハイキング」に参加して参りました。

 その1は こちら をご覧下さい

 往時の秩父往還をトレースする国道140号、愛称彩甲斐街道の秩父側最奥の集落、川又バス停から、写真を撮りながら呑んびり歩いて約2時間、12時10分折り返し点の赤沢谷出合着。
 此処は入川と名を変えた荒川源流に赤沢谷が合流する出合い地点。
 何故か荒川起点とされ、石碑が据えられている。河口まで173km。
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 入川本流は上流で股ノ沢と真ノ沢に分かれる。真ノ沢は埼玉県の最高地点、埼玉県には5基しかない一等三角点が据えられた三宝山(2483.3)と甲斐・武蔵・信濃の三国が頂上を分け合う甲武信ヶ岳(こぶしがたけ、2475)の鞍部に突き上げている。
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                                   平成14年4月末
        
                                                                 平成13年夏

 甲武信(ヶ)岳秩父側に少し下った肩の辺りに構える甲武信小屋の脇に「荒川水源の碑」が建つ。
                                          平成13年夏

 実は、水源とされているのは小屋から20分ほど下った真の沢源流になる。小屋脇の碑はポタリと落ちた1滴が水源との小屋主の稚気によるものらしい!?
 ちなみに、この小屋の水場は尾根の反対側を10分ほど下った笛吹川源流に得られる。テント泊の登山者はそちらを利用するようだ。
 なお、甲武信岳頂上から西に主脈を僅かで北に千曲川林道を降ると「千曲川源流の碑」が建っている。
 
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                                              平成15年夏

 つまり、甲武信ヶ岳は信濃川、荒川、富士川の分水嶺になっている。

 当日の参加者は2,000名を下らなかったであろう。往路では引き返す者の長い行列にすれ違ったが、昼食休憩の時間帯とあって一眼200名ほどが思い思いに座を占めて休憩中。なお、後続が続々と到着。

 ハイキングコースは此処までだが、この先さらに登山道が伸びる。
 赤沢谷の左岸を少し上がって吊橋を渡り山径に入る。径は入川本流を高捲くように付けられガレ場や小沢の渡渉が現れる上級コースとなる。

 この辺り本流は水量を湛え緩やかに流れる。 
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 一方、赤沢谷は大岩をゴロゴロとさせる急流で落ち込んでいる。
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 此処へ来るまで重いザックを背負ったペアの若者に出逢った。
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 聞けば今宵は柳小屋泊、翌日十文字峠から甲武信岳を経て奥秩父主脈縦走に挑むとか!今時稀な頼もしき絶滅危惧種の山屋!?

 柳小屋は、入川の上流が股ノ沢と真ノ沢に分かれる手前、マツバ沢が落ち込む淵を臨む辺りに建てられた無人小屋。

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 其処から十文字峠に達する股ノ沢林道と甲武信岳に向かう真ノ沢林道が伸びている。林道とは名ばかり山作業を生業とした人々が拓いたのであろう山道で、後者は稀に登山者が入り込むようだが既に廃道になっている。前者は、入川渓谷入口の川又から行先を「十文字峠」とする道標が見られるように、地図にも記された十文字至る登山道として知られ、今でも稀に愛好者に歩かれているらしい。

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 平成13年夏、甲武信岳から三宝山を越えて十文字峠方面に向かった折、甲武信岳を下った縦走路で「柳小屋」と記された古ぼけた道標を見掛けた。微かな踏み跡が沢に向かって降っているようだった。以来、「柳小屋」から逆コースでこの踏み跡を甲武信岳に辿ってみたいと念じたものだった。

 「柳小屋」は登山者用の避難小屋の役目を果たすとされたがその頃はもっぱら釣師御用達だったらしい。
 件の若者たちの言では、かつて、備えられた夜具もかび臭く、月夜には小屋の中から「月見が出来る」、訪れる度ドアが壊されたり窓が破られたりの惨状だったが、今では瀟洒なログハウス風に建替えられ心地よい夜が過ごせるとか。
 年老いた今、「柳小屋」での一夜は「夢のまた夢」になって仕舞った。

 赤沢谷出合にはありし日の森林軌道で活躍した貨物列車を描いた解説板が建てられている。それを見ると荷台はガソリン機関車で牽引されていたようだ。
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 軌道は、林道が整備されトラック輸送が盛んになり、昭和44年(1969)時勢に従い全線廃止と決められた。
 その後、昭和57年(1982)~59(1984)に、発電所取水口工事の資材運搬のため、軌道改修、運用に供され晩節を尽して使命を終えた。

 森林軌道は、赤沢谷出合まで敷かれていたと一般に説かれている。しかし、現地の地形に鑑み信じられないことだが、その先赤沢谷の右岸沿いに伸びていたと云う。赤沢谷には地図には登山路が示されていないが、
登山の観点からは、遮る滝も現れない平凡な沢で、遡行すれば少しばかり藪を漕ぐだけで、難なく十文字峠路に突き上げると云う。

 その中途、軌道の終点だったらしき場所に一寸した広場があり、人が集団で住んだらしい住居の跡が残るとか何かの記録で読んだ覚えがある。

 奥秩父の魅力を一口で云えば「森林と渓谷美」が通り相場で、中でも荒川源流地域の樹林は「千古以来手付かずの鬱蒼とした原生林」として流布しているようだ。しかし、今も残る軌道跡やその残骸はそのような幻想を無惨に打ち砕く。

 平成14年4月末、十文字峠から雁坂峠を周り、ついでに西沢渓谷に寄ってみようと、栃本から十文字峠を目指した。早朝家を出て秩父鉄道の終点三峰口から西武バスで秩父湖まで。そこで大滝村村営バスへの乗り継ぎに1時間以上の待ち合わせ。家を出てから登山基地の栃本まで5時間近く。ウンザリするようなアクセスだった。

 栃本から十文字峠へは、上述の入川沿い柳小屋経由の径と古くから武州と信州を結ぶ交易の道として利用された、峠から少し南で主脈から東に伸びる尾根を辿る十文字峠路がある。江戸時代後期、近郷の人々の寄進によると云う観音像が一里毎に据えられ里程標の役割をしている。

 三里観音を16:00過ぎに通過、暫くして一寸した広場に出た。そこを突っ切ると道幅が広まり歩き易く歩調が上がった。所々に繁みに隠れて軌道跡らしき形跡も見られ、全く予期していなかったこととて異界に迷い込んだような気分でいたところ、藪に遮られて行き止まり、狐に抓まれたような不安を覚えたものだった。国土地理院2万5千の地形図(中津川)には示されていないが、新三国峠を越えて佐久に通じる中津川林道(自分の車では走りたくない極め付きの悪路)の枝線で既に廃道になった奥秩父林道と云うのが尾根まで達していて古くからの十文字峠路と部分的に重なっていたらしい。

 股ノ沢林道を十文字峠に向かうと、十文字峠路の四里観音の僅か峠寄りの「栃本分岐」で峠路に合する。その手前に地図では「伐採作業場跡」と記された場所がある。鍋・釜や工作機械の残骸などが捨てられていると云う。ひと頃、甲斐の金山辺りから溢れてきた金鉱探しの山師達が住み付いていたらしい。

 かつて、荒川中流で採れた砂金は源流の奥秩父山地から流れ出たものと云う。
 入川の支流に金山沢、また荒川のもう一つの二大支流である中津川の流域にも金山沢、金堀沢がある。金鉱探しの山師らが徘徊した名残りであろうか!?

 荒川源流地帯に有用鉱物の鉱脈が布存することは地質学的見地から肯けられるが、あったとしても貧鉱で、しかも信玄の頃から掘り尽されているであろうから、到底儲けになるとは期待できないと云う。

 都会育ちには想像を絶するが、一口に「鬱蒼と繁る手付かずの原生林」と云っても、其処には山の民らが生き延びる術を求めて細々と暮らしを営んだ歴史が刻まれている。全く「手つかず」だった訳ではない。

 日本列島が改造され地方を隔てる大山脈の下をトンネルが通じ大都市に人口が集注、過密と過疎の2極分化をもたらした。

 鬱屈した都会生活から逃がれ、自然に触れて癒しを得たいとの人々の願いを「○名山」などとメディアが煽る。
 登山の大衆化は地図も読めないいっぱしの登山家気取りを生み出した。安易なコースから山頂を踏める名の知れた山に大挙押し寄せ、一つの地域の、地図に記されないバリエーションルートを極めようとするかつての「山屋」は絶滅危惧種になりつつある。
 荒川源流の登山道も殆んど歩かれなくなっていると云う。
 いずれは損壊・消滅すると思われた「山屋」御用達「柳小屋」だが、リニューアルされたと知り、もう決して訪れることは無いが、喜ばしい限り。

 このイベントは人気が高かったのであろう参加者が多く、先にも記したように、電車からバスの乗り継ぎに過大のロスタイムがあり、折り返しコースのため折り返してくる先発者の行列とのすれ違いに余計な神経を遣わされ厭わしく「来なけりゃ良かった」の思いに捕らわれたものだった。

 しかし、協力団体である秩父観光協会大滝支部の心配りであろう、「自然ガイド」の係員がコースのあちこちに構えていて、植生や地質、地域の歴史などの解説を拝聴させて戴き有難かった。折り返し点では、岩石標本を手にされた「埼玉県立自然の博物館」の元館長のH氏から周辺の地質や地形について貴重なお話を伺うことが出来た。H氏とは以前入会していた「自然の博物館友の会」の観察会などで度々お逢いしていて懐かしく思われた。
 同じく「友の会」でお世話になったO氏にも「夕暮」の歌碑の前でいろいろ有益なご教示を得た。
 感謝の意を表す次第。

 この辺りは白亜紀の約1億年から6500万年前に付加された四万十塁帯大滝層群が分布する。
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             ハイキングコース山側の崖に見られる泥岩層の露頭

 奥秩父山地では甲武信岳頂上付近から東の破風山(2317.7)にかけて新第3紀の約970万年から890万年前に地下深部から上昇してきたマグマによって作られた花崗閃緑岩の仲間が露出する。 
  
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 H氏が示された岩石標本の一つ「花崗閃緑岩」は甲武信岳頂上から転がり落ちてきたのではなく、この近くに小規模に分布する岩体の破片の由。

 ハイキングコースの途中で気が付かずに通り過ぎたが(雑多な行列の行き交いに混じっては気が付くハズがない!)、石英の脈や微細な黄鉄鉱を含むホルンフェルスの露頭がある。ホルンフェルスとは「硬い岩石」の意味で堆積岩が地下で高い温度と圧力を受けて変成したものを指す。ホルンフェルスの岩脈があるのはマグマの熱で焼かれたと考えられ花崗閃緑岩の仲間であるトーナル岩が地下に存在すると見られる。
 花崗閃緑岩は有用鉱物を伴う。
 中津川の支流神流川の上流に開発された「秩父鉱山」はトーナル岩の分布域に位置する。

 平賀源内はこう云う専門知識は持ち合わせなかったろうに山師の端くれに連なったのはそれなりの感性を持ち合せていたのだろうか?

 本日の紅1点!
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 精魂を傾けて奥秩父の山々を歩き回った一頃を懐かしみつつ帰路のバスで三峰口に向かう。

 - 了 -

田部井淳子さんと歩こう!?

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田部井淳子さんと歩こう!?

 11月27日(日)、埼玉県・西武鉄道・秩父鉄道共同開催の、[田部井淳子さんと歩こう!「晩秋の紅葉を楽しむ 琴平丘陵ハイキング」]に参加して参りました。
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 既に報じられた通り、田部井さんは、過日、余人の近寄ること叶わぬ高みへと旅立たれました。
 残念至極の次第でありまして、期待していたであろうフアンも落胆の故か、あるいは天候がイマイチであった故か、西武のイベントとしては何時もより参加者が淋しいようでした。
 10年程前、田部井さんのご講演を拝聴する機会がありました。その折、著書を2冊買い求めサインを戴きました。
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 本年は春先から体調を崩し山から遠ざかっておりましたところ、田部井さんの著書に「それでもわたしは山に登る」(2016年刊;文庫版)を知り通販で取り寄せました。
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 奇しくもそれが届いた翌日の朝刊に田部井さんのご逝去が大きく報じられ、えも云われぬ感慨に耽りました。
 田部井さんは‘がん'と闘いながら「山登り」を続けておられたのです。
 それに比べれば少しぐらい体調が崩れたからとて、「山歩き」を怠る口実にはなりません。
 少しでも田部井さんの心意気に触れようと掲記のイベントに参加を決めた次第でした。
 それなのに・・・・・!

 田部井さんの訃報に接し「そこに山があるから」(2016.7;初版)、DVD「夏の北アルプス ああ絶景!雲上のアドベンチャー」を取り寄せました。
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 琴平丘陵は398.8mの三角点が据えられたピークが一般的に最高地点とされている(実際は長者屋敷跡と名付けられたピークが400m強)。高度は左程でないがアップダウンが激しく金属製階段が架けられた険崖もあり、かっては修験の行者の苦行の険路であったと伝えられる。コースは、おおむね、両側が切り立った断崖を成す痩せ尾根に付けられ、所々チャートが剥き出しになった岩場に出合う。一般的に「琴平丘陵」の呼び名で通っているが、<丘陵>とは誤解を招くネーミングであると云う。

 西武秩父線横瀬駅前8:30~10:30の受付。芝桜で名高い羊山公園を通り抜け琴平丘陵を398m峰・長者屋敷跡・岩井堂を経て、札所26番円融寺・札所12番野坂寺と巡り、西武秩父駅に至る約8km、歩程約3時間のコース。
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 このコースはこれまでにも何回か歩いている。
 なかでも想い出深いのが平成22年6月の「武甲山トレイルラン」である。
 羊山公園内の芝桜の丘がスタート・ゴール。
 スタートして公園内を1周、琴平ハイキングコースを通り、札所27番大淵寺前を浦山口に向かい、武甲山登山の橋立コース(新西参道コース)を頂上に向かう。
  頂上から、小持山・大持山、妻坂峠を経て表参道コースの登山口、壱丁目石のある一の鳥居前から生川沿いに横瀬駅前を抜け羊山公園に戻る、距離27km、最大標高差1050m(主催者発表)。
 その模様は こちらをご覧下さい。

 2日前の予報では雨マーク。当日の予報では朝の内雨は残るも次第に回復と。もとより雨天決行の予告、雨に怯んではいられない。
 8:45、横瀬駅着、雨になりそうもない。受付を済ます。
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 羊山公園に向かう途中、左手西方に毎年登っていた想い出深い二子山を眺める。
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 かっての山行の模様は:
   こちら( 23年ゴールデンウイークの紀行 );
  や こちら( 平成24年4月中旬の紀行 ); 
をご覧下さい
         
 羊山公園に差し掛かる。
 背後に武甲山も生憎逆光。
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 芝桜の時季の雑踏が信じられない程に閑散。
 公衆トイレで用を足し、靴紐の締め直し、ブルゾンを脱ぐなど身支度を改める。
 トレランの時にはここを大集団の後尾で駆け抜けた。
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 公園の外れ。
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 公園を出てハイキングコースに掛かる。
 随所に枝道が走る。分岐には道標が据えられ本線から外れることはなかろう。
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 芝桜の丘を降って暫く行くと新第三紀系泥岩の露頭が見られる。
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 田部井さんにお逢い出来なかったのは残念だったが、コース要所の観察ポイントには本年7月の「荒川源流入川渓谷ハイキング」のように「自然解説員」が控えていて、貴重・丁寧な解説を有難く拝聴させて戴く。
(「入川渓谷ハイキング」については;
こちら をご覧下さい )

 その先、武甲山西参道の登山口。
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 右側に「武甲山入口」と彫られた石標がひっそりと佇む。安永七年の建立。
 この登山道は石灰岩採掘作業による危険のため久しく立入禁止(既に廃道!?)になっている。
 沢に架かる橋を渡ってほんの僅か、「山の神」の小祠。
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 此処からいよいよ琴平丘陵の本格的?山道になる。
 398.8m峰まで急登が続き汗ばんでくる。若者や健脚には道を譲る。
 「ゆっくりでいいからマイペースで完歩しましょう!」と田部井さんの励ましの声が聴こえた!ような・・・・・
 10:45、山頂標識と三角点。

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 一旦降って登り直し。
 何やらの展望台があるが先を急ぐ。
 大山祇神を祀る祠。
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 11:20、長者屋敷跡。
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 休憩舎も建つ小広場、それなりの賑わい。
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 国土地理院2万5千の地形図で見るとこの地点は400mの等高線の内側に入っている。このコースの最高地点だろう。
 もう一度降って登り直し。
 金属製階段で巨岩を登る。
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 岩頭に秩父修験者が籠ったと云う修験堂。
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 当然建て直されたもの。
 少し先に大仏座像が据えられている。
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 この先コースは杉林に挟まれた痩せ尾根を辿る。
 山体は風化に耐えた古生層の硬いチャート。
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 10分ほど先で少し降ると三叉路。
 右に、琴平大神方面が本日のコース。
 僅かばかり左にそれて岩井堂に寄る。
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 これは札所26番円融寺の奥の院。
 チャートの断崖にへばり付くように建てられている。京都の清水寺を模したと伝えれる。
 ここでも自然解説員の解説を拝聴。
 この先、護国観音を経て札所27番大淵寺へ至るのが琴平丘陵ハイキングルートの主筋。
 本日は岩井堂から僅かに先の三叉路まで戻り札所26番円融寺へ降る。
 金毘羅神社
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 戦没者を祀る祠。
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 石段を琴平大神社の裏手に降りつく。
 12:05、神社正面。
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 旧村社の格式を持つ。
 拝殿前の土俵
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  琴平大神社脇の太子堂。聖徳太子を祀る。
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 岩井堂には琴平大神社との太子堂間を通る道が通じている。先で340段の石段になる。
こちらの方がハイキングコースの本筋。

 平成11年11月末、この道を岩井堂に登り護国観音から大淵寺を経て札所28番橋立堂、その脇の橋立鍾乳洞などを巡る地質観察ウオーキングで巡ったことがある。
 ( その模様は こちらを ご覧下さい )

 見事な落ち葉の吹き溜まり。
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 門前から昭和電工の敷地内を通り抜ける。
 何やらの記念碑
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 工場敷地内通路から武甲山を仰ぐ。
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 ここからは市街地の車道歩き。
 秩父鉄道影森駅は至近だが・・・!
 札所26番円融寺
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 13:10、西武秩父駅前ゴール
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 観察ポイントなどでの小休止やカメラ操作を割り引いても想定をタイムオーバー。
 老いを悟った半日のハイキング。

- 了 -

日曜地学ハイキング 宮沢賢治の足跡を訪ねて(前編)

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日曜地学ハイキング 宮沢賢治の足跡を訪ねて

 12月18日(日)、地学団体研究会埼玉支部、日曜地学の会主催の第504回日曜地学ハイキング 賢治来県100周年-宮沢賢治の足跡を訪ねて-に参加して参りました。
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 事前申し込み不要、当日参加受付で、気楽に出掛けてみましたところ参加者ザット90名。この主催者によるイベントは初参加でしたが、当日の案内役・講師を務められた長瀞に構える埼玉県立「自然史博物館(現自然の博物館)」元館長の本間岳史氏とは以前「博物館友の会」で何度も案内・ご教示を戴いており、先に入川渓谷琴平丘陵でもお眼に掛かっておりました。

 宮沢賢治は、あまり知られていないようだが、農学を治めた。農学の基本は土壌、土壌の元は地質と云うことで、大正5年、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中、日本地質学発祥の地とされる長瀞を擁する埼玉県秩父地方やその周辺の地質模式地の実地見学・実習(巡検)に訪れている。
 本間氏は本業の地質・山岳発達史の研究の傍ら宮沢賢治の秩父周辺での事績について10数年に亘り現地探訪・資料の発掘などを重ねられ、得られた知見を折に触れ発表されている。
 当日のテーマは宮沢賢治が地質巡検で訪れた寄居地内のルートを辿り賢治の追体験を試みようとしたもの。
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 秩父鉄道やJR八高線、東武東上線が集まる寄居駅南口10時集合、イベントの概要を承った後スタート、荒川北岸を上流に向って観察ポイントを巡り秩父鉄道波久礼駅まで約8km、要所での観察・講義、昼食休憩を含め約5時間の巡検。
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 参加費200円で講師労作の貴重な資料を戴けたのは望外の喜び。一部を引用させて戴く。

観察地点① 山崎屋旅館
 創業は明治初期に遡り、地質研究者の定宿と伝えられる。
 明治34年(1901)8月下旬、湯川秀樹博士の御尊父・地質学者の小川琢治博士は秩父地方の地質巡検で当地を訪れた際、山崎屋で昼食を召されたとのこと。その外、この宿に投宿された斯界の泰斗は多くを数えると云う。
 現在の建物は大正期の建て直された。
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 ご当主から説明を受ける本間講師
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 近所に佇む往時を偲ばせる建物
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観察地点② 宮沢賢治の歌碑
 賢治は大正5年秩父地方の巡検中に多くの歌を詠んだ。
 平成5年、賢治の足跡を後世に伝えるべく寄居町の荒川北岸に歌碑が建立された。
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 赤色花崗岩に短歌二首が刻まれている。
 右;
  毛虫焼く、まひるの火立つ、これやこの、秩父寄居のましろき、そらに
 左;
  つくづくと「粋なもやうの博多帯」荒川ぎしの片岩のいろ

 一首めは寄居の地名が詠い込まれていることから当地で詠まれたとみなして差支えない。
 二首めは、同じ歌の歌碑が「自然の博物館」の建つ長瀞の川岸、博物館前の養浩亭駐車場にある。

  
 どちらで詠まれたのか両論あるそうだが、「粋な模様の博多帯」とは長瀞の河原にある名物の「虎岩」のことであろうとするのが有力であるとのこと。
 この歌は親友の保阪嘉内に宛た9月5日の小鹿野局の消印のある葉書に記された9首の一つ。
 嘉内宛には9月7日付秩父局の消印がある葉書にさらに9首が確認されている。
 保阪嘉内は体調を崩して巡検に参加することを得ず郷里の甲州で静養していた。農林学校の卒業は賢治に一期遅れる仕儀となった。
 なお、賢治は後年自分の歌を啄木流に数行に分ち書きに改めたとされる。
 ちなみに、秩父地方の代表的地質模式地の一つ小鹿野の「ようばけ」入口には賢治と嘉内の歌1首をそれぞれ刻んだ歌碑が1基づつ並んで建てられている。

 

観察地点③ 玉淀川原
 <雀宮公園> 賢治の歌碑から西に、古き良き時代を思わせる通りを進むと、左に7代目松本幸四郎(1870-1949)の別邸「雀亭」の跡に出逢う。今は公園となって紅葉の名所であり11月末には行楽客で賑わうと云う。
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 賢治らはこの辺りから川原に降りて上流に向かったと思われるが確証はない。
 先に進み、荒川を正喜橋で渡る県道30号を横切る。

<京亭> 県道を横切って僅か先、作曲家佐々紅華の旧居を模様替えしたと云う割烹旅館「京亭」が構える。
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 紅華は「祇園小唄」、「波花小唄」、「寄居小唄」などを世に出した。浅草オペラの創始者の一人とされる。
 代表作の一つ「君恋し」は紅華の没年の昭和36年、フランク永井がアレンジしたリメイク版でレコード大賞を受賞した。
 紅華(本名 佐々一郎)は昭和7年から没年の昭和36年1月まで寄居に居住。住居は本人の設計・築造になる数寄屋造り、「枕流荘」虚羽亭と名付けた。 
 紅華の没後、養女が女将を努め割烹旅館として営業を始め現在に及んでいる。「鮎めし」は絶品と!
 門前には「寄居小唄」の楽譜を刻んだ石碑が建つ。
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<玉淀川原> 秩父山地を下ってきた荒川が関東の平野部に流れ出る境目に当たり、蛇行する荒川の流れで浸食された岸辺が奇岩・絶景の景勝地を作り、昭和10年(1935)県指定名勝になった。「玉淀」の名は、水が緩やかに流れる様を玉の色に見立て、「玉のように美しい水の淀み」だと云うことから命名されたと云われる。明治の文豪田山花袋は紀行文「秩父の山裾」の中で激賞している。
 アユ釣りをはじめ、川遊びやデイキャンプなど行楽の場として人気を博し、毎年8月の第1土曜には「寄居玉淀水天宮祭」が催され、花火が打ち上げられて賑わう。
 「京亭」の少し先に河原に降りる車道が作られ、入口に石碑が据えられている。
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<鉢形城跡> 逆光で写りが悪いが、対岸の断崖の上は、戦国時代に築かれた「鉢形城」の跡地である。
 荒川はこの辺りで左に屈曲しその攻撃面に曝された台地の斜面が浸食を受けて断崖を作り天然の要害を成した。地学の観察ポイントを多く秘めるが本日は割愛。
 その跡地が昭和7年(1932)、国の史跡に指定され、平成16年寄居町により「鉢形城跡公園」に整備された。
 秀吉の小田原攻めの時、鉢形城に陣取った北条氏邦は5万の豊臣勢をわずか3500人の兵力で迎え、1ヵ月余りの攻防戦を繰り広げた。この時の合戦を模した「寄居北条まつり」が例年5月中ー下旬に催され、喧騒を極める。約500人の壮者が当時の甲冑姿で勢揃い、市街地をパレードした後、北条・豊臣の両軍に分かれ荒川を挟んで攻防を展開する様は圧巻。

<寄居酸性岩類> 川原に下りると、いよいよ「日曜地学」の趣が強くなり、上の写真のように、黒々とした馬の背のような、いくつも並んだ露頭が見られる。この辺りの川面は上流に造られたダムと高度成長期の大掛かりな砂利採取の影響で賢治らが訪れたころに比べズット下がっている由。荒川の水面は現在より2mほど高かったと見積もられている。賢治らがこの露頭を観察できたかどうかは疑わしい。
 露頭の岩石は色味から一見、塩基性(玄武岩質)火成岩らしく見える。しかし、ハンマーで割ると、白い長石に混じって、透明の石英の斑晶が多く含まれていることが見られる。このことから、この岩石は浅所貫入岩と見なされ「寄居石英斑岩」と命名された。
 その後、流理構造が認められる部分が多いことから、大部分は高温の酸性火砕流が自らの熱と重みによる圧縮を受け再溶融して出来た「流紋岩溶結凝灰岩」であると明らかにされた。本岩類は、溶結凝灰岩を主とし、花崗斑岩やごく少量の安山岩を伴うことから、これらを一括して「寄居酸性岩類」と呼ばれるようになった。云うなれば、火成岩とみなされていたものが堆積岩と識別されたのである。
 年代は6000万年±280万年前(後期暁新世)と見積もられる。
 岩石の正体・名称が改められた例として、信州大学の原山智が唱えだした「槍・穂高 火山起原説」がある。槍・穂高の山域に普通に見られる岩石はかつて半深成岩の「玢(ひん)岩」(現在の岩石分類では「半深成岩」と云う区分は適当でないとされて、「玢岩」と云う名前も消えつつある。代わりに閃緑斑岩、花崗斑岩に分類されるようになっている)。


<寄居層> 寄居酸性岩類が見られる場所から陸地に寄った方には淡灰色の礫岩が見られる。花崗岩質の粗粒砂岩の基質に長径3~8cmの円礫を含んでいる。丹念に観察すると花崗斑岩や石英斑岩、溶結凝灰岩など寄居酸性岩類の礫も混じることが見られる。
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 このことから、寄居層は寄居酸性岩類を不整合でおおう地層と説明される。
この説明は分かり難い。

<断層破砕帯> 寄居酸性岩類と寄居層とは断層で接していると云う。3m位の巾で断層破砕帯で断層運動によって‘揉まれた'部分が伸びていると云うが、川原石や植に隠されていてシロウトには判別し難い。
 周辺の地質図を下に示す。
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- 続く -
  続きは;  こちら をご覧下さい

日曜地学ハイキング 宮沢賢治の足跡を訪ねて(後編)

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日曜地学ハイキング 宮沢賢治の足跡を訪ねて(後編)

 12月18日(日)、地学団体研究会埼玉支部、日曜地学の会主催の第504回日曜地学ハイキング 賢治来県100周年-宮沢賢治の足跡を訪ねて-の参加記録(後編)
 前編は   こちら  をご覧下さい

 当日の巡検コース
   

 観察地点④ 「埼玉療育園」下の川原
 玉淀川原から一旦車道に戻り西へ、八高線のガードを潜って直ぐに左の分岐を「埼玉療育園」下の川原に、予定をやや遅れ12:25着。昼食休憩。観光スポットになっていないので一般客は見られない。
 雲一つない快晴、青空が広がる。無風に近い。絶好のハイキング日和。
 「地学」は「地学」として、昼食はハイキングに欠かせない愉しみ。行程に遅れ気味とて忙しないがそれなりに愉しむ。

■ 寄居層
<砂岩> 八高線鉄橋下の川岸に寄居層の淡灰色粗粒砂岩の小露頭が見られる。
 「画像 略」
 少し下流の川岸には細粒砂岸の露頭が続いている。遠方からズームアップ。
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<断層鏡肌> この辺り北東ー南西方向に何本かの断層が走り間に幾多の小断層が生じている。
周辺の地質図を再掲
 

 川岸の崖にそれらしき断層面の線が見られる。
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 断層運動の際の摩擦によりつるつるに磨かれた断層面を<断層鏡肌(スリッケンサイド>と呼ぶ。
 その代表的なものに埼玉県神川町の武蔵二ノ宮「金鑽神社」の裏手、金鑽御嶽山の登山道の取り付き近くに、国指定特別天然記念物、約九千万年前の断層活動の摩擦で磨かれたと云う、「御嶽の鏡岩」がある。
                           平成10年1月8日
 断層面上に刻印された平行条線を「スリッケンライン」と呼ぶ。
 スリッケンラインは、断層運動により断層面の両側の岩盤がズリ動いたときに、岩盤に含まれる硬い鉱物(石英など)や岩片が相手方の岩盤に傷を付けて出来る。
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          スリッケンラインが見られる小露頭

 このスリッケンラインの方向に岩盤がズリ動いたことを示す(上の写真では、矢印の方向あるいはその逆の方向)

■ 川原のれき
 この辺りは、荒川が大きく左にカーブする内側の滑走斜面になっていて、上流から運ばれてきた様々な種類・大きさ・形の礫が大量に堆積している。
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 上の写真、中央左は(花崗)閃緑岩。白い部分の基質は主に斜長石の長石類。緑色の斑は角閃石、雲母などの有色鉱物。左上は俗に「ワカメおにぎり」と云うようだが云い得て妙。
 丸味を帯びているのは、荒川の源流、甲武信岳辺りから転がり落ちてきたものだろうか!?思いめぐらすのも楽しい。
 左下、白みが強いのは長石や石英を多く含むため。
 右、角が取れていないのは硬いチャート?硬いだけではなく、それ程の上流から転げてきたものではない?
 講師が予め作成された、この辺りの川原で拾い集めた石ころの標本。
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 参加者の一人、「石ころの簡便な見分け方」についての質問に、一瞬戸惑い、やおら「数十年にわたり石ころと付き合って得た知識の積み重ね」との答。
 初心者は戸惑うであろうが落胆には及ばない。
 次のような小冊子が刊行されている。
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 「石ころの見分け」の入門には手頃な手引きとなろう。
 最近、一部の図版を差替・増補し体裁を大判にした改訂版が出ている由。
 次の冊子も、異なる水系のものだが参考になる。
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 川原の石ころは多種・多様で上掲の冊子には収録されていないものも多い。
 要は、巡検に限らず川原や山野を歩く時には、上掲のような冊子、図鑑類を携行し石ころと親しむこととは、植物観察に同じく肝要と痛感。

■ 御荷鉾緑色岩類
 上流に眼をやると青緑色掛かった色合いの御荷鉾緑色岩類の露頭が見られる。
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  御荷鉾緑色岩は、長瀞の岩畳などで見られる三波川結晶片岩と同じ変成岩の仲間である。変成を受ける前の岩石(源岩)は、中生代の時代に海底火山の噴火で流れ出した溶岩や、火山灰・火山れきが固まって出来た凝灰岩や火山角礫岩、さらには、はんれい岩や蛇紋岩である。噴出当時はどの岩石も黒色を帯びていた。その後、変成作用で緑色の変成鉱物(緑泥岩・アクチノ閃石など)ができたため、全体に緑色を帯びた岩石になった。それらを総称して緑色岩と呼ぶ。
 ちなみに御荷鉾緑色岩の‘みかぶ'と云う名称は群馬県万場町の御荷鉾山に由来している。
 なお、御荷鉾緑色岩や三波川結晶片岩に、日本地質学発祥の地である「長瀞」や「秩父」の名が冠せられていないのは、日本地質学の黎明期、パイオニアの地質学者が上州の御荷鉾山地を経て秩父に至り、その途中で観察・識別した地層や岩石に、通例に従いその土地の名を冠したもので、若し逆のコースを辿っていたならば、それらには「長瀞」や「秩父」の名が冠せられたであろうと云われる。
 ちなみに日本地質学発祥の地長瀞の「自然の博物館」の正面に「日本地質学発祥の地」と刻んだ見事な石碑が建つ。

 この石材は「御嶽の鏡岩」と同じ赤鉄石英片岩である。

 川原に露出する緑色岩。
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 白い筋は方解石の岩脈
 変成度の高い緑色岩を緑色片岩と云う。
 「片岩」は、薄く剥がれやすいパイのような性質がある。
 この性質は「片理」と云われ、岩石を造っている鉱物が一定の方向に並んでいることによる。
 緑色片岩は南関東でふんだんに見られる青石塔婆(板碑)の材料に使われる。
 講師が川原で拾った緑色片岩の塊をハンマーで叩く。
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 見事に割れて平滑な劈開面が現れる。
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 青石塔婆はこの大掛かりなもの。

観察地点⑤ 象ヶ鼻
 観察地点④の「埼玉療育園」下の川原から次の観察地点象ヶ鼻を眺める。
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 画面やや中央の円筒状構造物の右手前、赤褐色の断崖が象ヶ鼻。
 眺める方向によって象の鼻のように見えると云う。
 この先は川岸が切り立って淵となり直接アクセスできない。段丘面上の車道に戻る。

■ 象ヶ鼻公園
 象ヶ鼻の後背の台地は国有化され僅かばかりの園地になっている。
 ここには、かって修行中の弘法大師が弘仁10年(819)当地を訪れ、荒川岸壁の象ヶ鼻の岩を見て、大海を渡る巨像の姿を思わせることから、そこを霊地として自ら聖天像を彫り、その後、住民が祠堂を設けその像を祀ったと伝えられ、その堂が「聖天堂」として引き継がれていた。明治の廃仏毀釈により聖天堂は、ここへ来る途中で右方に見た象頭山極楽寺の境内に移設された。
 今は戦没者や満州開拓団犠牲者の慰霊塔などが建つ。
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 幸田露伴が明治31年にこの地を訪れた時の様子が「知々夫紀行」に記されている。明治43年の洪水で象ヶ鼻の岩が崩れ落ち今では往時とは趣が変容したと伝えられる。

■ 象ヶ鼻の緑色岩露頭
 象ヶ鼻の突端には公園横の小径を降る。普段は地元が危険防止・立ち入り禁止の措置を講じているが、本日は特別の計らいとか!山歩きに慣れない者にはキビシイ!案内の資料にコースは概ね平坦だが一部急坂とあったのを真に受けてスニーカーで来たのを悔やむ。
 突端はスペースが狭く3班に分かれる。
 突端の岩体。
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 方向が悪いのだろう、象の鼻には見えない。
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 攀じてみたいなど不遜な気持ちが・・・
 緑色岩とは名ばかり、淡灰色や淡褐色が勝るように見えるが?!
 講師持参の試料の見本を拝見。ダイヤモンドカッターの切断面はすべすべとして底光りする暗緑色、えも云われぬ美しさ!
 輝岩と呼ばれるそうで手に取るとズシリと重く感じる。鉄やマグネシウムなど重い元素を多量に含んでいるため。
 参加者の中にはマニアックも混じり、「地質屋」の七つ道具の一つハンマーを携行している者もいて、ヤタラとあちこち叩きまわる。
 輝岩は火成岩の一種で、輝石を主成分とする超塩基性岩。この岩体は御荷鉾緑色岩類の一員で、変成作用を受けて輝石は緑泥石などの粘土鉱物変わり、透明感のあるオリーブ色のかんらん岩の結晶も見られると。
 岩手大学農学部が保管する岩石標本に賢治が大正5年の地質巡検の際に採集したものが7点確認され、その一つに象ヶ鼻のこの場所で採集したと思われる輝岩が混じる由。

観察地点⑥ 末野石切場跡
 この場所には荒川の水流によって磨かれた絹雲母片岩(砂質片岩)や石墨片岩などの露頭が露出し、川岸にはかってこれらの岩石を採掘した際に出たと思われる大小さまざまの岩片が堆積している由。その他、小規模な地質事象が観察できる由だが時間の都合で立ち寄りはカット。次の観察地点玉淀ダムの堰堤から眺めるだけで済ます。
 なお、賢治が末野で採集した絹雲母片岩の標本が岩手大学農学部の資料室に残る由。

観察地点⑦ 玉淀ダム
 昭和39年に埼玉県により発電と灌漑を目的として建設された高さ32mの重力式コンクリートダム。平成20年に東京発電(株)に売却された。出力53,600KW.
 灌漑用水としてはダム左岸に設けられた取水口から、荒川中部土地改良区が5,375m3毎秒を取り入れ農業用水を供給している。
 ダム堰堤上から眺めた末野石切場跡
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 手前の鉄橋は寄居・皆野有料道路、後方はIC進入路。
 ズームアップ
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観察地点⑧ 波久礼石切場跡
 秩父鉄道波久礼駅の裏?に当たる東側に南北に通る旧秩父往還が残る。地元の人も利用するとは思えないが肩巾ほどの簡易舗装がされている。径は不自然に一旦緩く登りややあって降る。
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 ここには石切場があったと云う。径の右には山裾が迫っているがこの部分ではえぐられたような地形になっている。逆に左側は舌状に盛り上がって張りだしている。えぐられた部分は採石の痕跡で張りだしはズリ(不要の鉱滓)が堆積したもの。山肌を削り落とした工法によりこのような痕が残された。採石の対象は緑泥石片岩、道路の敷石用などとして無蓋車に積んで熊谷方面に出荷された。
 旧道沿いのあちこちに往時の名残り、緑泥石片岩の大小のかけらが散らかっている。この辺りには緑泥石片岩と絹雲母片岩が交互に露出し、さらに北に進んだ矢那瀬入口には切り立った崖があって絹雲母片岩が露出していたと云う。絹雲母片岩は緑泥片岩が変成したものである。
  地下深くに押し込まれた岩石は、高い圧力と温度との作用で鉱物の結晶構造が「変成」する。これを「再結晶作用」と云う。この時、鉱物が圧力の方向に対して垂直な面に並び、「片理」を作る。このようにして出来る岩石を「結晶片岩」と云う。
 大正6年に当地を訪れて詠んだ保阪嘉内の歌に
    波久礼駅 Sericite schist の 傾斜儀に 荒川の水は笑ひて流る
がある。Sericite schist とは絹雲母片岩の英語名。
 賢治がこの場所で採集した「緑泥片岩」と「滑石片岩」のサンプルが岩手大学農学部の標本庫に残されている由。
 この辺りは以前は寒野(さびの)呼ばれていたが、鉄道が敷設されて破崩山(はぐれやま)と呼ばれるようになり、「波久礼」と云う駅名が付けられた由。
「波久礼駅」は明治44年9月まで秩父鉄道の「終着駅」だった。
 観察地点④「埼玉療育園」下の川原で拾った「絹雲母片岩」の石ころ。
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 全体的に薄緑色を帯びていて、ルーペで見ると白雲母の変種絹雲母の結晶らしきが認められる。
 賢治が「末野石切場」で採集したと云うサンプルは、写真で見ると、角張っている。これは上流から流れに揉まれて転がって来たのだろう、薄い片理が何枚も重なり、円摩されて「せんべい」のように平たくなっている。
 持ち帰り本日の巡検の記念として標本箱に収める。

- 了 -


 

古都鎌倉漫歩

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古都鎌倉漫歩

 2月14日(火)、所属するクラブの同好の有志を募り「梅の香薫る古都鎌倉漫歩」と洒落込んで鎌倉に出掛けて参りました。

 計画では、JR横須賀線北鎌倉駅をスタート、建長寺の境内を抜け、「半増坊」から鎌倉アルプス「天園ハイキングコース」に取り付き、中途で「覚園寺」方面にに降り、同所に立ち寄ってから鎌倉宮、四季を通じての「花の寺」瑞泉寺に向かうことにしていた。

 往路、西武池袋線で池袋へ。JR池袋駅発8:44湘南・新宿ライン逗子行に乗車の予定のところ池袋線が10分遅れでタッチの差で間に合わず、8:57発国府津に乗り込む。大船で横須賀線に乗り換えだがどれ位の待ち合わせか気に病む。

 杞憂は悪い方に出る。
 横浜駅の手前で「送電線の点検」とかで停車、詳しい状況説明ないままに約1時間が経過。帰宅後眼にした夕刊に報じられたところでは、先を行く東海道線の電車の運転手が架線から火花を発するのを目撃、一帯の送電が止められ、この電車の乗客ら1500~2000名が線路に降り、係員に誘導されて踏切から外に出てバスで近くの駅に向かったとか!
 ようやく横浜駅に達するも、「信号待ち」の車内アナウンスのみで詳しい状況は一切知らされないまま20分ほど出発見合わせ。

 こんなことで2時間近くロスタイム、散策は計画の前半をカット、鎌倉駅からのスタートとなる。

 既に「昼飯時」。昼食は鎌倉宮近くの「蕎麦の銘店」の目論見。
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 鎌倉宮左手を覚園寺方面に向かい200mほど、約2分。
 「銘店」に似つかわない一般住宅風の玄関、ドアに「本日は‘ゆず切り’」の張り紙。やや大きめのテーブルに椅子が10脚。一般中流家庭のダイニングルーム風。ひと頃流行った‘脱サラそば打ち店’だろうか。マスターは愛想が悪い。本日は‘ゆず切り’は都合により取り止め‘10割そば’だけと。‘おかみ’はいなく一人で切り盛りしている模様。天ぷらなど望むべくもない。‘そば’はそれなりの出来栄えなれど¥1200の値付けには如何なものか?!

 店の前を通る道は覚園寺方面へ鎌倉アルプスに至る。当初の目論見では建長寺裏から「半増坊」を経てこの道を降ってくる予定だった。
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                            2013.02.10

 鎌倉宮前に戻り向かって右の道を瑞泉寺に向かう。
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 鎌倉の街はずれを歩くと幼い頃過ごした「ふるさと」が想い出されて懐かしさが込み上げてくる。

 瑞泉寺、入口詰所と背後の梅林。
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 「松陰吉田先生留跡碑」
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 山門 
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  境内にはこのような石碑があちこちに据えられている。
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 左前方の梅林、紅白入り混じる。
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 まだ時季が早いのかやっとほころび始めたと云う程の淋しさ。あと2日後には3月末の陽気に見舞われる。一斉に咲き誇ったであろうか!
 よく見ると老木が多い。既に盛りを過ぎたのか?!
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  鎌倉市天然記念物の「冬桜」の苗木(?)
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 本堂前の黄梅
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 「日本の植物学の父」と言われた牧野富太郎博士の命名と云い、江戸時代からの古木と伝えられる。開花はこれからだったようだ。

 本堂裏の庭園。
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 この寺を開き、庭を作ったのは、京都の天龍寺や西芳寺(苔寺)の庭で名高い禅僧、夢窓疎石。
 庭園を味わう鑑賞眼は持ち合わせないが、後方の崖に穿かれた洞門には眼を奪われる。岩質は、機械力に頼らずとも人力で穿けるほど柔らかい第4紀の凝灰岩と思える。

 本堂裏
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 この寺は、狭山市ゆかりの「入間川殿」こと初代鎌倉公方足利基氏(尊氏四男、二代将軍義詮次弟)の菩提寺。
 基氏の狭山市との所縁についてはこちらをご覧下さい。

 基氏の墓所は一般には非公開。
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 基氏応援団員を自認、まんざら全くの縁もゆかりも無いわけではなかろうと少しばかり‘遠慮’を棚上げ!?
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 基氏の墓はこの墓地の最奥、囲いに隔たれていると!

 瑞泉寺手前に永安寺跡の立札がある由だが見逃した。第4代鎌倉公方の足利持氏が幕府に反抗して挙兵、あえ無く敗れ弟の満貞ともども自刃した跡地と伝えられる。
 鎌倉の路地はぼんやり歩けない。至る所に史跡や小碑が潜んでいる。

 永福寺跡。
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 奥州に遠征した頼朝が平泉の大伽藍群を見て驚嘆、対抗心に駆られて建てた寺院と伝えるが、建造物は一切残っていない、‘夢の跡’。
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 鎌倉宮(祭神は後醍醐天皇の第三皇子、鎌倉幕府討滅に大功のあった征夷大将軍の大塔ノ宮・護良親王)に戻ってお義理(?)の参拝。
 境内は史跡の宝庫。とりわけ有料の本殿裏手は時を忘れて過ごすに相応しい‘異界?’の趣溢れる。時間の都合でカット。

 護良親王が幽閉されていたと伝えられる土牢。
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                   2013.02.10

 裏庭にある一般客目当ての客寄せ!子供騙しにも程がある!
 鎌倉アルプスを歩けば嫌でもあちらこちらに眼につく「やぐら」。岩を穿った土窟で、武士らの墓所とされる。地質が柔かい凝灰岩で人力で容易に穿孔出来た。それらと同類の土窟に過ぎなかろう!

 鎌倉幕府を倒して「建武の中興」に取り掛かった後醍醐天皇であったが、大功あった護良親王を謀反の疑いで遠ざける。自分の腹を痛めた皇子に皇位継承を望む側室と武家政治の再興を密かに期す足利尊氏との謀略による。尊氏の実弟直義が支配していた鎌倉に送られ幽閉。
 その伝えを見世物を仕立てたサル知恵。尊氏・直義の兄弟が「宮」を土牢に押し込めるなどありえない。実際は座敷牢に軟禁、身の回りの世話をする女性も侍っていたと云う。

 鎌倉幕府滅び北条高時自刃して2年後、「建武親政」に不満の諏訪・信濃・越後などの地方武士が、まだ幼児の高時の遺児時行を担いで乱を起こし鎌倉を攻略・占拠。いわゆる「中先代の乱」。

 直義は鎌倉を捨てて退散、この時配下を使って宮を斬殺。反乱軍に担がれては天下大乱の元、連行するには足手纏いとての処置。

 この時の時行軍は、後に鎌倉街道が設けられる東山道入間路を伝い、現狭山市域で入間川を渡河、一気に南下、鎌倉に攻め込んだ。このコースは「元弘の変」の新田義貞の討幕コースに重なる。

 尊氏は入間川を鎌倉防衛の最前線と位置付ける戦略眼から、鎌倉公方の基氏を現狭山市域に駐屯させた。基氏が「入間川殿」と呼ばれた所以。

 大塔ノ宮・護良親王の名誉回復は明治維新以後。鎌倉宮は明治天皇の勅・命名により建立された。

 鎌倉宮の近くに護良親王の墓所がある。都合により立ち寄らず。
 護良親王の墓は鎌倉にもう一ヶ所妙法寺の裏山にある。
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                   2015.11.16

 妙法寺を再興した日叡は護良親王と愛妾「南ノ方」との間に生まれた御落胤と伝えられる。護良親王が粗末な土牢に幽閉されていたとは‘眉つば’とする所以。

 そろそろ帰路の便が気になり始める。「頼朝の墓」などの案内標識を横目に、ぶらぶらと先を急ぐ。

 横浜国大付属小の前を通り鎌倉国宝館の裏手にあたる南西から鶴岡八幡宮境内に入る。
 「静桜」
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 源義経の愛妾静の没地、福島県郡山市からの移植と云う。

 頼朝に強要され「工藤の銅拍、秩父の鼓」に合わせて「しずやしず・・・」と口ずさみながら静御前が舞いを舞ったと伝えられる舞殿。
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 「昔を今に返すよしもがな」の感慨深い。
 今回は立ち寄らず。

 前日は大安吉日、さぞやこのような光景が散見されたであろう。
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 帰路の便にグッドタイミングで鎌倉駅帰着。半日の鎌倉漫歩を終える。

― 了 ―



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